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手賀城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0403.JPG←大手虎口脇の北斜面の横堀
 手賀城は、大掾氏の庶流で玉造氏の一族、手賀氏の居城である。平安末期の治承年間(1177~80年)に、行方氏の祖、行方宗幹の4男幹政がこの地に分封されて玉造氏を称し、その次男正家が手賀に分封されて手賀氏を称した。以後、その子孫は代々この地を領したが、手賀城がいつ頃築かれたかは明確ではない。時代は下って戦国中期になると、手賀与一郎景幹は玉造宗幹を援けて、小田氏治と戦った。この頃には、山入の乱・部垂の乱などの内訌を克服し、家中統一に成功した佐竹氏の勢力が常陸南部にも及ぶようになり、玉造氏・手賀氏らの国人衆も佐竹氏に従属せざるを得なくなった。1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した手賀高幹ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。城主なき手賀城も落城し、以後廃城となった。

 手賀城は、比高30m程の台地先端部に築かれている。ひどい薮城で、城域の8割程がものすごい竹薮と倒竹地獄となっており、遺構の確認が容易ではない。台地先端に主郭を置き、その周囲に腰曲輪をぐるりと巡らしている。更に南西端に舌状腰曲輪を築き、北西にも小郭を置いている。腰曲輪の北斜面には何ヶ所かの折れを持った横堀が穿たれている。主郭は平坦な長方形の曲輪で、主郭の東続きに、間をややくびれた堀切状の虎口で区画した馬出郭が築かれている。馬出郭は土塁で防御し、その東側の台地基部は規模の大きな二重堀切で分断されている。そのさらに東は外郭らしいが、どこまでが城域かは判然としない。二重堀切の1本目の南側横には櫓台と竪堀を伴った木戸口が設けられ、主郭に通じる城道が小郭を経由して伸び、搦手虎口であったことがわかる。またこの堀切から竪堀が下り、途中で二重竪堀となり、その西側には南斜面の腰曲輪が確認できる。一方、1本目の堀切の北側から北斜面にかけては、この城一番の遺構が見られる。主郭腰曲輪から竪堀状の虎口が伸びていて、その東側に2段の横堀が斜面に沿って穿たれ、竪堀状虎口の西側は前述の北斜面の横堀が接続している。この下にL字状の土塁で構築された枡形虎口が伸びている。これが大手であろう。一方、先ほどの2段の横堀はL字に屈曲して、二重堀切の1本目に接続している。従って、2段の横堀の中間土塁もL字状の独立した土塁となっている。この様に手賀城は、大手虎口に対して多重横矢の塁段・横堀を設けて厳重な防御を施しており、戦国後期の改修を想起させ、中々の技巧性を持った縄張りの城である。とにかく、竹薮がひどいのだけが難である。
馬出郭の切岸と二重堀切の1本目→IMG_0343.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.091627/140.432053/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=airphoto&vs=c1j0l0u0f0
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