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岩富城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9280.JPG←主郭に残る土塁
 岩富城は、下総の名族千葉氏の重臣原氏の一族、弥富原氏の居城である。1470年頃に原左衛門尉景廣が築城したと言われ、以後子の胤行らが城主を務めた。弥富原氏も千葉宗家と共に小田原北条氏に属した為、1590年の北条氏滅亡と共に滅んだ。その後、玉縄北条氏の当主氏勝が、関東に入部した徳川家康より岩富1万石に封じられて城主となった。氏勝は、小田原の役の際には要衝の山中城主となって激戦の指揮をとったが、上方勢の猛攻の前に落城を免れず、自害しようとしたところを松田康長ら重臣達に説得されて城を脱出し、本拠の玉縄城に立て籠もった。その後、説得を受けて玉縄城を包囲した家康に降り、以後は家康に従ったものである。1614年、養子の氏重が下野富田城に移封となり、岩富城は廃城となった。

 岩富城は、鹿島川東岸の比高20m程の段丘上に築かれている。城域北西端に五角形をした主郭を置き、その周囲に二ノ郭などの曲輪を配している。現在明確に残っているのは主郭だけで、東側に土橋の架かった虎口を構え、外周を土塁で防御している。特に虎口部では土塁上の幅が広くなっており、櫓門が築かれていたことが想像される。主郭の東と南の空堀もはっきりと残っている。主郭東側が二ノ郭であったと思われ、段状に平場が築かれている。ニノ郭の北西斜面の下方に腰曲輪があり、主郭下方の腰曲輪との間は、空堀から落ちる竪堀で分断されている。この竪堀はどうも城内通路を兼ねていた様である。この他、本宿の地名が残る付近に方形の土塁の一部が残るらしいが、主郭以外の曲輪は宅地化されているので、確認はできない。城内はかなり改変されているが、教蔵寺北側に東から谷戸が入り込み、そこに古道が残っている。見るからに堀跡・虎口跡らしい地形で、搦手虎口だった可能性もある。いずれにしても、明瞭な遺構は主郭周りだけなのは惜しいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.655448/140.235801/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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通りすがりの城マニア

主郭のヤギさん、元気でしたか?

人懐っこいのか、近寄ってきましたけど(笑)
by 通りすがりの城マニア (2016-08-03 05:03) 

アテンザ23Z

>通りすがりの城マニアさん
コメありがとうございます。ヤギさん、お元気でした!
柵が低いので、あまりこちらに興味を持たれて柵越えて逃げ出されても大変なので、あまり近づかないようにしましたが。
by アテンザ23Z (2016-08-04 02:20) 

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