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宇留野城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8030.JPG←主郭周囲の堀
 宇留野城は、佐竹氏の庶流宇留野氏の居城である。元々の創築は不明で、古くは鎌倉後期の1297年頃に「宇留野大輔阿闍梨宏瑜」の名が見え、宇留野氏を名字の地とする一族が居たことが知られる。その後、佐竹氏14代義俊の庶子がこの地に分封され、当初は出家して天鳳存虎と称したが、後に還俗して宇留野義公と称し、宇留野氏の祖となった。戦国前期に、佐竹氏17代義篤の弟義元が宇留野義久の養子となって名跡を継ぎ宇留野城主となった。1529年、義元は兄義篤の重臣小貫俊通の部垂城を攻め落とし、部垂城に移って部垂氏を称した。これ以後、「部垂の乱」と称される佐竹氏の内乱となった。義元が部垂城に移ると、経緯は不明であるが宇留野義久の兄義長が宇留野城主となった。1540年、佐竹義篤は部垂城を攻め落として部垂義元を滅ぼし、ようやく内乱を鎮定した。部垂城攻撃に際しては、宇留野義長は佐竹宗家に味方して義篤の軍勢に参陣した。宇留野氏はその後も佐竹氏一族の有力者として活躍したとみられるが、1602年に佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、これに従ってこの地を離れ、宇留野城は廃城となった。

 宇留野城は、前小屋城と部垂城の中間に位置し、久慈川西岸の同じ段丘上に築かれている。これら3城はほとんど接するような至近距離に築かれており、城が機能した期間も重複していることから、相互に強く関連して機能していたことが想像される。おそらく久慈川の水運を扼し、佐竹宗家の本城常陸太田城に繋がる街道を押さえる、重要な交通路であったためであろう。宇留野城は、台地上に深く入りこんだ浸食谷を挟んで、東の台地突端部と西の段丘縁の2つを城域に含めた、珍しい構成の縄張りとなっている。東側が主城部で、南端から主郭(御城)・ニノ郭(中城)・三ノ郭(外城)を連ねた連郭式の縄張りとなっている。それぞれの曲輪は堀切で分断され、土塁もよく残っている。主郭には日向神社が建てられているが、土塁が残り、南側や東側の斜面には腰曲輪もはっきり残っている。東の腰曲輪には、主郭・ニノ郭の堀切が繋がっており、城内通路を兼ねていたことがわかる。この腰曲輪には土塁と竪堀状の虎口も確認できる。また南の腰曲輪の西端には櫓台が備えられた虎口が構築されている。三ノ郭の南西端にも虎口郭が築かれ、西側の曲輪との連絡路になっている様である。一方、前述の2つの城域の西側は外郭または根古屋に相当する部分で、南北に4つの曲輪があったとされているが、現在は宅地化や耕地化でかなり改変されており、部分的に土塁の残欠が残っている程度である。宇留野城は、規模も構造も前小屋城ほど眼を見張るものはないが、主城部の遺構は良好で一見の価値がある。
南腰曲輪の櫓台と虎口→IMG_8119.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.541226/140.424306/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo1&vs=c1j0l0u0f0
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