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湯ノ原館(宮城県七ヶ宿町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1002.JPG←東館背後の大空堀
 湯ノ原館は、湯原城とも言い、その創築は不明であるが、伊達氏が七ヶ宿街道を押さえるために築いた城と考えられる。南北朝期に伊達宗遠・政宗が長井攻めを行って以来、七ヶ宿街道沿いの宿場町は伊達氏への報恩の志厚く、1591年に伊達政宗(貞山公)が岩出山に移封となり、1598年に上杉景勝が会津・置賜に移封となって湯ノ原館が上杉氏の持ち城となった後も、伊達家崇敬の念が厚かったらしい。その為、1600年の慶長出羽合戦の際には、山形城主最上義光への支援に動いた伊達勢が、留守政景を総大将に兵3000で山形城の東方に進出し、茂庭綱元率いる別働隊が七ヶ宿街道を西進すると、この地域の住民は伊達氏に味方した。その結果、綱元は9月25日に湯ノ原館を攻略し、更に二井宿峠に近い玉ノ木原に於いて上杉勢との間で合戦となった。この頃までは、湯ノ原館には城代が派遣されず、湯ノ原の者共に預け置かれていたとされる。後、伊達領に戻ると、伊達家宿老中野常陸介の支配下となり、その家臣横尾兵衛が寛永頃まで居城した。1644年には伊達家御一門の石川大和の知行地となり、幕末まで石川氏の重臣が配置され、藩境の警備に当たった。

 湯ノ原館は、湯ノ原小学校とその背後の丘陵中腹に築かれている。主要な曲輪としては、最上段に上館(本丸)と東館が並立し、上館下方に二ノ丸が置かれた配置となっている。上館と東館は空堀(斜面に沿っている為、竪堀状となっている)で分断され、背後を土塁で防御し、この土塁はそのまま土橋状となって上館と東館を連結している。この土塁は東館では普通の規模だが、上館では高さ10m程にも及ぶ大土塁となっている。またその背後は、やはり深さ10m程の大規模な空堀が穿たれて、背後の丘陵と分断されている。この大空堀は途中で折れ曲がって横矢が掛けられている。上館の内部は3段程の平場に分かれ、前面に腰曲輪を築いている。東館も前面に腰曲輪があり、上館の腰曲輪と繋がっている。上館の前面には大手虎口が築かれ、その下方は土塁と切岸で囲まれた枡形となっている。更にその下方には横堀が廻らされているが、一部破壊を受けている。山裾の湯ノ原小学校が二ノ丸跡で、外周に土塁や西端に一段高い平場が残っている。全体に、現地解説板に掲載されている城絵図の縄張りはほとんど残っているようだが、未整備で全体に藪がひどい。それでも上館は昔は公園だったらしく、登道があり、遊具が草むらの中に残っている。遺構としては、前述の大土塁や大空堀など見どころが多いので、もう少し整備されればと惜しまれる。
 尚、麓の東光寺には儀山公政宗夫妻の墓があり、伊達氏と湯ノ原との深い繋がりを感じさせる。
上館背後の大土塁→IMG_1020.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.014829,140.32161&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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