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久慈城(岩手県久慈市) [古城めぐり(岩手)]

IMG_8913.JPG←東の木戸口
 久慈城は、奥州の名族南部氏の庶流久慈氏の居城である。久慈氏の祖は、南部氏初代光行の4男朝清と言われているが、12代信実以前については諸説あって明確ではない。いずれにしても300年程に渡って久慈地方を支配した様である。宗家の三戸南部時政の3男信実が婿養子となって久慈氏を継ぎ、文明年間(1469~86年)の頃に久慈城を築いたと考えられている。その後も、周辺諸豪と姻戚関係を結んで、広い地域に勢力を持ったまま戦国期を乗り越えた。しかし1591年、18代直治とその女婿19代政則は、正則の兄の九戸城主九戸政実が三戸城主南部信直と争った時(九戸政実の乱)、政実に味方して九戸城に立て篭もり、政則は九戸城搦手の副将として奮戦した。南部氏の要請により、豊臣秀吉は大軍を乱鎮定のため派遣し、上方勢は謀略を巡らして九戸政実を降し、政実や久慈父子ら7人の重臣は総大将豊臣秀次の待つ三ノ迫(宮城県)で斬首された。こうして久慈氏の嫡系は滅亡し、秀吉の諸城破却令により久慈城も廃城となった。

 久慈城は、慈光寺の東に張り出した比高40m程の丘陵先端部に築かれている。市の史跡となっており、登城道などある程度の整備はされているので、夏場でも遺構を確認することができる。山頂に平坦で広い主郭を置き、その東側にニノ郭を築き、これらの周囲に腰曲輪を巡らした構造となっている。またニノ郭の東尾根にも曲輪群を築き、木戸口とそれを防衛する小郭も築かれている。その下方の山裾には平坦な平場が広がっており、井戸跡が残る他、外堀が渓流となって残っている。一方、主郭の背後には掘切があり、その後ろに三ノ郭が築かれている。三ノ郭の先端は物見台があったらしく、現在は土壇の上に稲荷社が祀られている。また三ノ郭北側にも腰曲輪が備わり、前述の掘切が城道を兼ねており、ここから腰曲輪に通じている。比較的簡素な構造の城であるが遺構がよく残っており、夏場でも予想外に遺構の確認ができたのは嬉しい。
主郭の掘切→IMG_8993.JPG
IMG_8934.JPG←山裾の外堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=40.192496,141.709943&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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