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柳之御所(岩手県平泉町) [古城めぐり(岩手)]

IMG_8796.JPG←復元された空堀
 柳之御所は、奥州藤原氏の政庁、平泉館と考えられている遺跡である。古くから奥州藤原氏の初代清衡・2代基衡の屋敷跡であったと伝えられてきたが、近年の発掘調査の結果により、その規模と質的充実性から考えて、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』に見える「平泉館」と想定されている。清衡は、当初父経清の代からの居館である豊田館を本拠としていたが、嘉保年間(1095~97年)の頃に衣川の南、平泉に居館を造営して移り住んだと言われている。そしてこの地を拠点に奥六郡を支配し、豊かな産物と産出される黄金を背景に中尊寺を建立して奥州藤原氏繁栄の基を築いた。2代基衡の時に新たに毛越寺の造営に着手し、3代秀衡の時に毛越寺の堂塔が完成した。また秀衡は、これまでの居館であった柳之御所を大改修して政庁と為し、新たな居館として伽羅御所を築いたと言われている。こうして繁栄を誇った奥州藤原氏であったが、大きな時代のうねりに飲み込まれていくことになる。即ち、平家の衰退と東国における源頼朝の台頭である。そして藤原氏の命運を決することになったのが、秀衡が頼朝の異母弟源義経を庇護したことである。奥州に君臨した秀衡の存命中は、武家政権を樹立した頼朝も奥州に迂闊に手出しはできなかったが、秀衡は1187年に病に倒れ、そのままこの世を去った。巨星が落ちたのを好機とばかり、頼朝は秀衡の跡を継いだ4代泰衡に圧力を掛け、それに屈した泰衡は1189年、義経を衣川館(高館)に攻め滅ぼした。しかし頼朝は、却って義経を匿っていたことを口実に奥州征伐の兵を興し、大軍を率いて奥州に侵攻した。泰衡は、阿津賀志山から続く丘陵地帯に二重の堀と三重の土塁を備えた長大な防塁を築いて必死の抵抗を図ったが、激戦の末に山岳地帯を迂回した紀清両党に側背を突かれて大敗を喫し、鎌倉勢に防塁を突破された。逃れた泰衡は平泉に自ら火を放って逃亡し、柳之御所も焼亡した。泰衡は家臣の裏切りによって殺害され、奥州藤原氏は滅亡した。

 柳之御所は、北上川西岸に築かれている。堤防工事で破壊される運命にあったが、破壊前の発掘調査により極めて貴重な遺構であることが判明し、急遽堤防計画が変更され、現在は国の史跡となって整備が進められている。北東側は北上川による侵食で形が変わっていると思われるが、南西部は空堀で囲まれて防御しており、その堀が復元されている。曲輪の内部には、庭園の池跡が復元整備され、建物跡は発掘調査の結果に基づいてその位置が示されている。古い城館なので、建物の規模は現代的感覚からすればかなり小さく、強勢を誇った奥州藤原氏の政庁と言っても、この時代のものとしてはこの程度のものだったかと思わせる。まだ周辺での発掘調査は続けられているので、今後の成果に期待したい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.993689,141.119621&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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ねじまき鳥

堀が復元されたことは知らなかった。
また行きたい。

by ねじまき鳥 (2015-11-07 23:13) 

アテンザ23Z

>ねじまき鳥さん
まだ発掘調査が続いているので、今後も復元整備が続けられると思います。無量光院跡もまだまだ整備されるみたいです。
by アテンザ23Z (2015-11-08 02:05) 

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