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高山寺城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5705.JPG←寺跡の石垣
 高山寺城は、弘浪山に開創された高山寺を城塞化した寺院城郭である。高山寺は、社伝によれば古く天平時代の761年に法道仙人による開基とされ、源平争乱の際に兵火で消失したが、鎌倉初期に再興された。鎌倉末期の1333年、隠岐に流されていた後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国船上山で挙兵すると、その近臣千種忠顕は六波羅攻めの大将として伯耆から山陰・山陽両道の兵を率いて派遣され、荻野彦六朝忠ら丹波国人衆は倒幕戦に投じて六波羅攻めの一翼を担った。しかし幕府方(六波羅勢)の反撃に遭い、兵を引いて高山寺城に立て籠もったことが『太平記』に記載されており、これが高山寺城の初見である。その後、足利高氏(尊氏)が丹波篠村で倒幕に挙兵すると、高山寺城に立て籠もっていた朝忠は、足立・児島・位田・本庄・平庄等と共に「今更人の下風に立つ手はない」として高氏の下には参じず、丹後・若狭を経由して北陸道から攻め上ったと言う。また1336年正月の京都争奪戦に敗れた尊氏が九州に落ち延びた際には、室泊の軍議によって足利一族が来るべき再挙東上に備えて西国諸国に配置され、丹波には仁木頼章が大将として派遣され、久下・中沢・荻野・波々伯部ら丹波国人衆を率いて高山寺城に立て籠もっている。その後朝忠は、丹波守護仁木頼章の下で守護代を務めたことが知られている。しかし、1343年に備前の三宅高徳と通じて突如室町幕府に反旗を翻し、高山寺城に立て籠もったが、討伐軍の幕将山名時氏に兵糧攻めにされて朝忠は堪らず降伏したと言う。また、その後も1352年には、京に囚われていた興良親王(護良親王の子)を、丹波の南朝方武士が救出して高山寺城に入れて立て籠もっている。この様に高山寺城は、南北朝期には度々西丹波の抗争の拠点となっている。戦国時代には、その城砦としての機能が生きていたかは不明であるが、寺自体は存続し、1509年にも赤井伊賀守によって修復されているが、明智光秀の丹波平定戦によって焼かれている。1600年に寺は復興され、度々の損害を受けながらも昭和33年まで存続した。この年に高山寺は平地の常楽地区に移されて、山上の寺は廃絶となった。

 高山寺城は、標高520mの弘浪山の山頂から東にやや降った、山上の広い谷戸部分(標高380~400mの位置)に築かれている。現在は「高山寺遺跡」と呼ばれ、昭和期まで寺が存続していたため東麓から往時の参道が残っており、迷うこと無く登ることができる。参道を登って寺のあった谷戸の東に張り出した尾根上に至ると、いきなり眺望がひらける。寺は谷戸に位置していることから周囲への眺望がない為、この尾根先端部が物見の出城として機能したと思われる。丁度「盗人崩し」と呼ばれる岩場の付近で、尾根上は数ヶ所にわたって平たく削平されている。一方、谷戸部には寺の遺構が残っており、石垣や石積みの水路跡、仁王門の礎石、歴代住職の墓などが残存し、大銀杏の木も残っていて、寺のあった当時の状況が目に浮かぶ様である。ここには土塁や堀などの城郭を思わせる遺構は、ほとんど確認できない。ここから100m以上西に登ったところが弘浪山山頂で、明確な遺構には乏しいが物見砦として機能したと推測される。高山寺城は、城郭遺構というより寺院遺構がほとんどであるが、中世の歴史を伝える遺跡として重要である。
奥の本堂跡→IMG_5721.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.163442,135.018486&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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