So-net無料ブログ作成

騎西城(埼玉県加須市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC02171.JPG←天神曲輪の残存土塁
(2007年1月訪城)
 騎西城は、私市城とも呼ばれ、武蔵北東部の要衝の一つである。元々この地には、武蔵七党の一、私市党の居館があったと推測されている。騎西城がいつ築かれたかは明確ではないが、その姿は享徳の大乱の中で初めて現れる。即ち、鎌倉を逐われて古河に本拠を据えた古河公方足利成氏は、1455年、対立する山内上杉氏方の庁鼻和性順(憲信、上杉一族)、家宰長尾景仲が守る騎西城を攻め落とした。その後、山内上杉氏に属した種垂城主で常陸の名族小田氏の一族であった小田大炊頭顕家が、戦国前期に騎西城に居城を移した。後に顕家は、忍城主成田下総守親泰の子助三郎宗長を養子に迎えて小田助五郎家時と名を改めさせて騎西城を守らせ、自身は種垂城に隠居した。1563年には、武蔵松山城の救援に間に合わなかった上杉謙信が、小田家時の守る騎西城を攻め落とした。1574年、上杉謙信は深谷城奪還のため越後より越山し、騎西城・菖蒲城羽生城岩槻城を攻め落とした。しかし謙信の連年の関東出兵にも関わらず、関東北部まで小田原北条氏の勢力が拡張し、その後は騎西城も北条氏の支城となった。1590年の小田原の役の際、騎西城も上方勢に攻め落とされた。北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入部すると、松平康重が2万石で騎西城に入った。1601年、康重が笠間城に移封になると、大久保忠常が騎西城主となった。1632年、大久保忠職が美濃加納城へ移封となると、この地は天領となり、騎西城は廃城となった。

 騎西城は、岩槻城や羽生城と同様、沼地(低湿地帯)の只中に浮島の様に曲輪が浮かぶ水城であったが、現在は耕地整理と市街化によって城のほとんどの遺構は湮滅している。わずかに県道38号線脇にほとんど唯一の現存遺構とも言える、天神曲輪の土塁が残っている。高さ3m程の立派な土塁で、所謂掻き揚げの城として往時はその威容を誇っていたことが想像される。また外郭に当たる前玉神社の西側にも、堀跡が一段低い畑となって残っている。この他、発掘調査の結果、外郭の堀跡の中に全国的にも珍しい、碁盤の目の様な緻密な障子堀が発見されているが、これはそのまま地下に埋まっている。古い航空写真を見ると1960年頃までは本丸・ニノ丸・馬屋曲輪・天神曲輪・外郭といった各曲輪の輪郭が水田の中にはっきりと残っていたが、その後の耕地整理で大半は失われてしまった。それでも各所に「二の丸跡」などの標柱が建っているのはありがたい。
前玉神社脇の堀跡→DSC02184.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.104318,139.584571&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
    (土塁の位置)
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 4

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

メッセージを送る