So-net無料ブログ作成

神楽ヶ岡城 その2(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9705.JPG←ニノ郭から見た三ノ郭の空堀
 神楽ヶ岡城は、以前は全山もの凄いガサ薮でほとんどまともに遺構の確認ができなかった。薮で鼻血を出すハメになった、これまでで唯一の城でもあった。しかし読者の上沢さんからのご教示で藪が伐採されたとの事だったので、改めて訪城した。

 神楽ヶ岡城は、なだらかな丘陵上に築かれており、大きく3つの曲輪から構成されている。南から順に三ノ郭・ニノ郭・主郭と並んでいる。三ノ郭は城の前衛を為す比較的小規模な台形の曲輪で、外周に空堀が廻らされている。ニノ郭は三ノ郭より広く、三ノ郭からは掘切で分断され、掘切と繋がった空堀が西面まで防御しているが、東側は切岸のみで処理されている。郭内は上段・下段の2つに分かれ、下段は外周に土塁を廻らし、隅櫓台のほか中央後部に大きな櫓台を設けている。この中央櫓台は、もしかしたら古墳を転用した可能性があり、城全体の防御の指揮所の様なものだったように見受けられる。下方の三ノ郭に対しては右手から横矢を掛けられるように曲輪が張り出している。主郭は城内最大の曲輪で、ニノ郭との間はやはり掘切で分断され、中央にわずかに土橋らしきわずかな畝が見られ、西側に櫓台が張り出している。掘切はそのまま東の塁線に沿って穿たれている。東の塁線は数ヶ所で折れを持ち、東端近くには虎口の土塁らしいものも確認できる。この主郭左翼の構造は、屈曲した塁線に横堀巡らしたもので、諏訪山城にも同じ構造が見られる。但し神楽ヶ岡城では、空堀はかなり浅い。また前述の掘切は西側からぐるりと円弧を描いて曲輪の北辺全体を包み込むように穿たれており、空堀外周は土塁がはっきりと構築されている。西側の空堀外周はニノ郭から主郭にかけて帯曲輪となっており、北条氏の大規模城郭によく見られる構造とよく似ている。主郭自体はだだっ広いだけの平場で、前面と西側には土塁が築かれているが、割と防御構造は厳重ではない。その為、最高所に位置するもののどちらかと言うと外郭の様な印象の曲輪で、もしかしたら中央の曲輪(ニノ郭)が主郭かもしれない。この他、主郭から南東の丘陵部にも曲輪や櫓台が設けられ、途中に掘切や腰曲輪が築かれている他、城の西側斜面にも物見台らしい土壇が2ヶ所確認できる。

 神楽ヶ岡城は、丘陵中央部に築かれた城で、遺構は明確であるが、空堀は埋もれてしまったのかかなり浅く、大した防御性を持っていない。しかし横矢掛かりの多用や空堀外周の腰曲輪の構造など、小田原北条氏の影響を感じさせる遺構も見られ、技巧性と遺構の規模の中途半端さが相容れず、どのように解釈したら良いのか、判断に迷うところである。

 尚、きえさんの情報の通り、長福寺に城主であった藤平家の墓があり、またその西側には二条城主として西方の地に入部した藤田信吉(能登守重信)の墓も建っていた。信吉は、長福寺の中興開基であるらしい。皆さんから頂いた貴重な情報も役立ち、楽しい初春の城巡りとなった。
主郭左翼前面の横堀と土塁→IMG_9716.JPG
IMG_9789.JPG←主郭背後を廻る空堀
南東丘陵部の掘切→IMG_9753.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
  ※縄張りが確認できたので、再評価しました。
nice!(3)  コメント(8) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 3

コメント 8

きえ

再来訪していただいたのですね!
お久しぶりです。
私の方もその後調べて我が家のルーツ等が色々分かりました。参考になるかは分からないですがぜひ情報提供させていただきたいという気持ちは山々なんですが如何せん個人情報過ぎてネット上に書くことが出来ず申し訳ないです(>_<)しかし城跡の考察など参考になります…!


by きえ (2015-06-24 23:32) 

アテンザ23Z

>きえさん
ご無沙汰しております。古い家柄には、いろいろと公開されていない古文書なども眠っていますので、調べるといろんな情報が出てくるのでしょうね。戦国時代の伝承でも何か残っていたら、重要な歴史を紐解く鍵になるかもしれませんね。今後も頑張ってください。
by アテンザ23Z (2015-06-25 21:25) 

弥八

 2016年12月18日、栃木県西方の神楽ケ岡城を訪問しました。
 私の姓は「とうへい」と読む藤平で、栃木県芳賀郡赤羽の出です。父からは赤羽の藤平(とうへい)の先祖は西方からきたときかされていました。
 赤羽には藤平を「とうへい」と読む家が10軒ほどあり、大学に進学するまでは藤平を「とうへい」と読むことに違和感はありませんでした。大学に進学して「ふじひら」と読む藤平さんがいて、「とうへい」という読み方の由来を考えるようになりました。また、教授からは読み方も同じ同姓同名の卒業生がいたと教えていただきました。その方は西方の方でした。
 西方は赤羽の藤平家の先祖の出身地ときいていましたので、いつかは訪問したいと考えていましたが、これまで訪問したことがありませんでした。
 ネットで「藤平」をキーワードに検索をしていたときにアテンザ23Zさんの神楽ケ岡城の紹介に出会いました。2回の神楽ケ岡城の紹介を読んで近いうちに西方を訪問しようと考えていました。
神楽ケ岡城を訪問して、予想していたよりも規模が大きく驚きました。城趾内は落ち葉が厚く積もっていましたがきれいで、城趾内を歩いてもケガをする可能性は低くいと思いました。城跡内の調査をされていると思われる方々をお見かけしましたので、調査報告が出るかもしれません。楽しみです。
 神楽ケ岡城の南端にあたる三宮神社におまいりしました。アテンザ23Zさんにご紹介していただいていた1351年(観応2年)に藤平泰隆の名前が出てくる石碑を見ました。私にとって観応は藤平の姓が出てくるもっとも古い時代になりました。これまでは、赤羽に伝わる「藤平伊賀、慶長年間、西方より引越、下赤羽居住す」の慶長でした。
 三宮神社と川をはさんで西側のお寺にもおまいりにいきました。
おまいりした墓碑に中央の「平」の文字囲む下がり藤の紋がありました。私の家の紋は藤の花の三つ巴です。NHKの大河ドラマの軍師官兵衛にでていた黒田家の藤の紋と同じです。宇都宮氏の家紋が三つ巴ですので、それにあやかったのではないかと考えています。
訪問したお寺は曹洞宗ですが、赤羽には真言宗のお寺一つあるだけです。私が子どものころは隣の藤平家のご当主が檀家総代をしていました。
 神楽ケ岡城から北東に3㎞ほどのところに道の駅「にしかた」があります。食事をしてきました。単価は高めかなと思いましたが、量は多く、おいしいので食欲旺盛な方も満足されると思います。西方を訪問するときはここで食事をすることにしました。
 アテンザ23Zさんには西方訪問のきっかけをいただき、感謝しています。藤平の家系をさかのぼる機会になりました。それにしても、西方で藤平の姓を名乗るようになった方はいつ頃方なのでしょう。


by 弥八 (2016-12-19 20:17) 

アテンザ23Z

>弥八さん
ご訪問、また大変貴重なコメント、ありがとうございます!
以前にきえさんからもご教示いただいていた富張と赤羽の藤平氏が見事に繋がったので、びっくりです。
三宮神社の社伝にある「西方氏初代景泰の子、佐渡守綱景が、1351年の観応の擾乱の時、足利尊氏方として駿河薩埵山の戦いに藤平紀伊守泰隆(綱景の弟か?)と共に先陣として出陣した。」という記載から推測すると、西方景泰は1293年に西方に分封されたこと、藤平泰隆が景泰の子である可能性があることを考え合わせると、藤平家のルーツは鎌倉末期まで遡るのでしょう。いずれにしても宇都宮氏の一族なのですね。
西側のお寺は長福寺ですね。私もきえさんからのご教示で、2回目の訪城の際に藤平家累代之墓をお参りしました。藤の花の家紋の繋がりからも、系譜の繋がりが感じられますね。
いろいろな情報がいただけて、大変参考になります。今後共よろしくお願いします。
by アテンザ23Z (2016-12-21 00:01) 

きえ

久方ぶりに覗いてみましたがおそらく遠縁の親戚が気になるコメントを残していたので書かせていただきますね

そもそも藤平は石川県からの流れだそうです。
これは一族の語り部であった曾祖母からの情報で文献には残っていないと思います。
私と父で調べたところ石川県七尾市に田門神社の社伝に元々平家の土地で倶利伽羅峠の戦い後に藤原氏が納めたことから藤平谷(とうべや)となり一族の祖は藤平と名乗ったようです。
そのことから本家は恐らく平家の鎮魂のため家紋に下がり藤に大きく平と書いていると考えられます(本家以外はこの家紋は使わないそうです)。
栃木にいってからは宇都宮家に遣えてずっと栃木にいますので特に代わり映えはしませんが西方くずれで富張に残った藤平、西方にいった藤平、そして西方から赤羽にいった藤平の三家が栃木にはあるようですね。

あまりお城については詳しくないので家のことくらいしか書けず申し訳ありませんが参考になればと思います。
by きえ (2017-07-13 01:04) 

アテンザ23Z

>きえさん
いろいろとご教示ありがとうございます。
元々の本貫地が石川県まで飛んでしまうとは驚きです。そうなると、どのような経緯で栃木に移ってきたのかが気になりますね。宇都宮氏を頼ってのことだとしたら、鎌倉時代に宇都宮氏と何かの関わりができたのでしょうか。
今後もいろいろなコメント、よろしくお願いします。
by アテンザ23Z (2017-07-17 08:59) 

きえ

ご返信ありがとうございます。
実は家系図の中に下野でおそらく最も有名な武将である藤原秀郷(将門公を討ったことで有名な武将です)がいました。
なので、元々下野の人間が能登へ行き名を得て、下野に帰還したのではないかと私は考えています。

朝廷の命により京より下野の国へ(藤原)→将門公討伐で名をあげる(藤原)→倶利伽羅峠の戦いの後に能登に定着し藤平を名乗り始める(藤平)→薩埵峠の戦いの頃までには下野に帰っていた(藤平)

下野に帰還した後は宇都宮家に仕えていたようですが、豊臣の時代に何百年も仕えた宇都宮家滅亡が身に応えたのかその後は帰農してしまいほとんど戦に出ていないようです。唯一家系図に記録が残されている関ヶ原の戦いは東軍として出陣したり丹羽氏に資金提供などをしていたようです。

また、資料を読めていないため詳しいことは分かりませんが「源平盛衰記」に登場する藤平実光という三浦一族に仕えた武将も同族の可能性があります(これは与太話として聞いてくださって結構なのですが三浦半島では自分は今でこそ減りましたが他の地と違い尋常ではないほど心霊現象に悩まされたので一族ごと相手方に恨まれてるのかな~と繋がりを感じていたりします 笑)。

現在、能登の方にもお家があるそうなのですがその家と我が家では20代くらい違うためおそらく本家筋が下野に戻った後に残った分家筋を初代として今も存続しているのではないかと考えられます。

まあ、自称 秀郷の子孫なんて多いですし我が家も家系図は曽祖父の父の代つまり江戸時代後期に書き直したようなので信頼性には欠けますが色々と要所要所一致することもありますし資料としてはおもしろいかなと思います。
by きえ (2017-08-28 12:09) 

アテンザ23Z

>きえさん
江戸後期の家系図とのことですが、本格的に調べるとなると、相当大変なことになりそうですね。NHKでやっているファミリーヒストリーなど見ても、数代遡るだけでも大変だと思います。20代も隔たっていると、確実な一次史料を探すとなると、容易には辿れそうにないですね。
またきえさんも仰っている通り、中近世の系図では名家への仮託も多いので、ますます辿るのが困難ですね。
でもそれはそれでいろいろと想像が膨らんで、面白そうです。今後の新発見に期待いたします。
by アテンザ23Z (2017-08-28 18:39) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

メッセージを送る