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龍子山城(茨城県高萩市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5138.JPG←垂直絶壁の掘切
 龍子山城は、近世には松岡城と呼ばれ、大塚郷の地頭大塚氏が1420年頃に築いたとされる。その後、山入の乱による家中内訌で佐竹氏が弱体化すると、岩城氏が常陸北部に進出し、車城を攻め落とし、その軍勢は龍子山城にも迫った。城主の大塚成貞は抗しきれずに岩城氏に降伏し、以後岩城氏の勢力下に入った。戦国末期になると佐竹義重が勢力を伸ばし、1583年、北常陸に侵攻して車城を攻め落とした。この頃大塚氏も佐竹氏に従属した。1596年には岩城氏・佐竹氏連携の知行割りによって、大塚氏は陸奥折木城に移封となり、その後は梶原氏が龍子山城主となった。1600年の関ヶ原合戦の後、岩城氏は改易、佐竹氏は秋田に転封となり、龍子山城には出羽角館城主戸沢政盛が入った。この戸沢氏時代に龍子山城は近世城郭へと変貌を遂げ、名も松岡城と改められた。戸沢氏は1622年に出羽新庄城に国替えとなり、この地はしばらく水戸藩・棚倉藩に分割統治された後、1646年、水戸徳川家の附家老中山信正が松岡城主となった。この信正は、元々小田原北条氏の家臣で、滝山城主(後に八王子城主)北条氏照の重臣であった中山勘解由家範の孫に当たる。小田原の役の際に家範が八王子城で壮絶な討死を遂げた後、その次男信吉が徳川家康に見出されて信任を受け、家康の11男頼房が立藩した際に附家老に抜擢され、頼房が水戸藩を興すと、中山家は代々水戸徳川家の附家老として重要な地位にあった。将軍家光の命で、頼房の子の中から後の光圀を後嗣として選んだのも、信吉の慧眼に依るところが大きかった。こうして松岡城は、中山家の城として幕末まで存続し、その間に多くの文化人を輩出した。

 龍子山城は、標高57mの龍子山に築かれている。山麓の松岡小学校が、近世松岡城の役所などが置かれた外郭で、その上の谷戸の平場に城主居館があった。更にそこから山を登った要害部も江戸時代にかけて存続しており、中世山城と近世平城が融合した城であった。平城部分は学校や公園となったほかは、山林の中に遺構が良好に残っており、神社の周囲に土塁や水堀、曲輪などが見られる。一方、山城部分は正に中世山城の縄張りをそのまま残しており、山頂の主郭とその北東に掘切を挟んでニノ郭を置き、尾根に沿って曲輪群を連ねている。主郭には土塁が築かれ、虎口には櫓門跡と思われる大きな土塁が築かれている。また一部の曲輪は急峻な高い切岸で防御されている。この城で特徴的なのは、上総式の垂直絶壁掘切の技法が見られることで、御殿曲輪から山城に登る部分に切通し状に穿たれた城道兼用の掘切や、西の尾根筋を分断する掘切は、岩盤掘削面が正に上総の城と同形状である。井戸跡も2ヶ所はっきりと残っており、遺構はよく残っているものの、ほとんど未整備で藪が多いため、踏査が困難である。しかも訪城日は天候があまり良くなかった為、要害部の北側下方に穿たれた大きな横堀や外周の外郭線には行くことができなかった。いずれ再訪して確認したい。

 尚、松岡小に付属している就将館で、この城や高萩の歴史に関する情報を多数教えていただけた。不勉強であった為、中山家範の子孫の城とは知らずに訪れたが、たくさんの資料をいただくことができて非常に有意義だった。
主郭の櫓門土塁→IMG_5170.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.740836,140.704908&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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