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真壁城(茨城県桜川市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4598.JPG←外郭の堀と復元土塁
 真壁城は、常陸大掾氏の庶流真壁氏の居城である。大掾氏は常陸平氏の宗家で、大掾多気直幹の四男長幹が1172年に真壁郷に入部して真壁氏を称し、真壁城を築いた。長幹は、1189年の源頼朝の奥州合戦の際、常陸守護八田知家に従って従軍し、その後は鎌倉幕府の御家人として次第に勢力を拡張した。南北朝期には6代幹重は当初常陸南朝方として活動して北畠親房に味方したが、後に北朝方に降った。1416年の上杉禅秀の乱では、幹重の子朝幹は鎌倉公方足利持氏方として戦い武功を挙げたが、その後は京都の室町将軍直轄の「京都扶持衆」として、幕府と対立する鎌倉公方持氏と干戈を交え、特に持氏から度々討伐を受けた、同じ大掾一族の小栗氏に味方して、真壁氏も一旦は没落を余儀なくされた。その後、永享の乱・結城合戦・享徳の乱と打ち続く関東の混乱の中で真壁氏は旧領を回復した。戦国時代に入ると、真壁氏は周辺の小田氏や結城氏の狭間にあって、その時々で味方したり抗争したりを繰り返したが、やがて佐竹氏が常陸の大勢力として勢力を伸ばしてくると、次第にその傘下に入っていった。戦国後期には、小田原北条氏が勢力を拡張し、真壁久幹は佐竹・北条の2大勢力の狭間にあって、嫡子には北条氏政から「氏」の字をもらって氏幹と名乗らせる一方、次男には佐竹義昭の「義」の一字をもらって「義幹」と名乗らせるなど、真壁氏の自立的な道を模索した。しかし戦国末期になると、北へ北へと勢力を拡張する北条氏に対して、佐竹氏を中心とする北関東の大名連合が対抗し、真壁氏もその一翼を担って北条氏と戦った。小田原の役で北条氏が滅亡すると、佐竹氏は豊臣大名として存続し、真壁氏は完全に佐竹氏の家臣に列することとなった。1600年の関ヶ原合戦の際、佐竹義宣は徳川家康に対して曖昧な態度に終始したため、戦後秋田に転封され、真壁氏もこれに従って角館に移封となった。その後、真壁城には浅野長重が2万石で入ったが、1624年には稲葉正勝が真壁城に入り、4年後に正勝が真岡藩を継ぐと、真壁藩は廃藩となった。

 真壁城は、小田城と並ぶ筑波周辺屈指の広大な平城で、国指定史跡となっている。小田城と共に毎年発掘調査と城址の整備復元が進められている。戦後までよく遺構を残していたが、高度成長期の乱開発でニノ丸西部を道路が貫通したり、本丸に市の体育館が建てられるなど、中枢部が大きく破壊を受けている。しかし城域東部の遺構はよく形を留めている。ニノ丸東部の堀や三ノ丸・外郭の横矢掛かりの堀がよく残り、外周を廻る高土塁が復元されている。しかしこの復元土塁は、どこからどこまでが完全な想像復元なのか、現時点では整備途中のため全く表示がなく、明示した方が良いと思う。広い外郭の東端だけが往時の土塁のまま残っており、櫓台が築かれていたことがわかる。外郭の南側には出枡形の虎口が復元整備されている。まだまだ復元整備には時間がかかりそうだが、できれば本丸の体育館も移築解体して、往時の姿を少しでも取り戻して欲しいものである。
二ノ丸の堀跡→IMG_4575.JPG
IMG_4658.JPG←三ノ丸の屈曲する堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=36.275317&lon=140.107506&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世平城
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