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佐倉城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_10189.JPG←台地下の角馬出し
 佐倉城は、徳川幕府重臣の土井利勝が築いた近世城郭である。元々は戦国前期の天文年間(1532~55年)に、千葉氏の一族鹿島幹胤が築城しようとした「鹿島の城」であったが、完成を見ないまま普請が中断されたとされる。その後、本佐倉城主千葉邦胤もここに本城を移そうとしたが、半ばにして家臣に暗殺され果たせなかったと言う。1590年、小田原の役によって小田原北条氏と共に千葉氏も滅亡すると、関東に入部した徳川家康の家臣が関東各地に配された。1610年、家康の命で2代将軍秀忠の重臣土井利勝が小見川一万石から佐倉に移封され、未完の鹿島城を再築し、7年の歳月を掛けて新たに近世城郭の佐倉城を築いた。1633年に土井氏が古河城に移封となると、佐倉城は江戸の護りとして石川家・松平家等の老中格の譜代大名が城主を歴任し、1746年に堀田家が山形藩から佐倉藩に移封となって以降は堀田家のまま明治維新を迎えた。尚、幕末には、老中として開国を推進した堀田正睦を輩出した。

 佐倉城は、鹿島川に臨む比高30m程の段丘上に築かれた崖端城である。明治以降は陸軍佐倉連隊の駐屯地などに使用されたため、本丸以外はかなり改変を受けており、また外郭の一つ椎木曲輪には国立歴史民俗博物館が建てられているため、かなり往時とは様相が変わってしまっている。縄張りとしては梯郭式で、台地先端角部に本丸を置き、外周に空堀を穿ちつつニノ丸・三ノ丸を廻らし、南東側に三ノ丸御殿と武家町の置かれた外郭、北東側に椎木曲輪を配置している。本丸には外周の土塁と天守台・櫓台が残る。佐倉城の天守は三重であったが、1階の半分が土塁に掛かる珍しい形式であったらしい。2ヶ所の門跡には土橋が残る。空堀はいずれも深さ5~10mもある様な大規模なものであるが、ニノ丸と三ノ丸の堀は北西部分が湮滅し、残った堀は深い藪に埋もれている。ある程度整備されているのは本丸外周の堀だけである。三ノ丸から椎木曲輪に対しては大型の角馬出があり、博物館前に発掘復元されている。この他、台地の下には本丸の下方を廻る円弧状の水堀と、北西・南西2ヶ所に築かれた馬出し、また椎木曲輪の下にも三十三間堀の一部が往時の姿を残している。近世城郭とは言うものの、水堀以外は選地も遺構も中世城郭の雰囲気を濃厚に漂わせる城だった様だ。
本丸の一ノ門土橋→IMG_10034.JPG
IMG_10087.JPG←三ノ丸の空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.722187&lon=140.216116&z=16&did=std&crs=1
タグ:近世崖端城
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