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飛山城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_4955.JPG←6号堀南側の張出し櫓台
(2006年11月訪城)
 飛山城は、宇都宮氏の重臣芳賀氏が築いた城である。鎌倉時代後半に、芳賀高俊が鬼怒川の船運などの交通路を押さえる要衝に築城した。芳賀氏は当初真岡城を居城としていたが、鎌倉幕府の評定衆として勢力を強めた宇都宮氏に接近するため、より宇都宮城に近い飛山城を築いたと推測されている。南北朝時代には、芳賀氏(本姓清原氏)は宇都宮氏麾下の強力な軍事集団として勇名を馳せ、益子氏(本姓紀氏)と共に「紀清両党」と称されたことは太平記に名高い。足利尊氏が後醍醐天皇と袂を分かって北朝を擁立すると、時の宇都宮氏当主の公綱は南朝方として活動したが、飛山城主芳賀高名は公綱の子氏綱を擁して宇都宮城を占拠し、北朝方に付いた。北畠顕家・新田義貞が相次いで討死すると、後醍醐天皇は北畠親房を東国に派遣して南朝勢力の再建を図り、神宮寺城阿波崎城を経由して小田城に入った親房は一族で配下の部将春日顕国に軍勢を率いて下野に侵攻させた。顕国は、1339年に八木岡城と益子城を攻め落とし、上三川城箕輪城の北朝勢を追い払った。勢いに乗った南朝方は西明寺城を拠点として北朝方の飛山城に迫った。1340年、飛山城の支城石下城が落城し、翌41年、顕国は飛山城を攻略して鬼怒川を挟んで北朝方の宇都宮城と対峙した。この時、鎌倉府の足利基氏の執事の一人として京から派遣されていた高一族の高師冬は、飛山城支援のため宇都宮城に入っていたが、飛山城の落城必至と見て矛先を変え、瓜連城に移動して親房のいる小田城を背後から攻撃した。小田城は抗しきれずに降伏し、親房は関城大宝城に逃れて抗戦を続けた。しかし1343年、師冬の活躍によって関・大宝両城も陥落し、常陸の南朝勢力は壊滅、失意の親房は吉野に舞い戻った。この時顕国は北朝方に捕らえられて斬殺されたと言う。これと平行して、芳賀高名も飛山城を攻めて奪還した。

 時代は下って戦国時代になると、宇都宮氏と芳賀氏は主従とは言いかねる複雑な関係となった。1541年、宇都宮俊綱は真岡城主芳賀高経を殺害した。高経の子高照は奥州白河に逃れ、益子氏出身の芳賀高定が俊綱の支持の下、芳賀氏の当主となった。1549年、白河にいた芳賀高照は那須氏の支援を得て宇都宮氏を攻撃し、一方俊綱は那須氏を強攻して五月女坂で大敗、討死した。その勢いで高照は宇都宮城を占領し、俊綱の子広綱は芳賀高定の真岡城に逃れた。こうして真岡城の宇都宮広綱・芳賀高定と、那須氏の支援を得た宇都宮城の芳賀高照が対峙し、飛山城はその最前線に位置することとなった。しかし高照を支援していた那須高資は芳賀高定の謀略によって千本城で殺害され、後ろ盾を失った高照は孤立し、鹿沼城主壬生綱雄が北条氏康の支援の下、宇都宮城を占拠した。高照は、一転して高定を頼って真岡城に逃れたが、1555年に高定に殺害された。1557年、宇都宮広綱・芳賀高定は常陸太田城主佐竹義昭を頼り、義昭は5千の軍勢を率いて飛山城に入り、壬生綱雄を圧迫した。この頃から北関東を巡って、小田原北条氏と常陸佐竹氏の両勢力が激突することとなった。綱雄は全面対決を避けて宇都宮城を退去して鹿沼城に移り、宇都宮広綱はほぼ10年ぶりに宇都宮城に復帰した。1558年、越後の上杉謙信は北条氏討伐の為関東に侵攻、小山城主小山高朝を降し、宇都宮領の多功城を攻めた。宇都宮城の広綱と真岡城の高定は多功城を救援し、上杉勢を激戦の末撃退した。戦国末期になると、北条氏は北関東への侵攻を本格化し、下野南部も激しい攻勢に晒され、平城の宇都宮城を支えきれなくなった宇都宮氏は新たに多気山城を築いて本拠を移した。これに伴って真岡城との繋ぎ城であった飛山城の役割は低下し、1597年に宇都宮国綱が豊臣秀吉によって改易されると、飛山城も破却された。

 飛山城は、鬼怒川左岸の比高25m程の段丘端に築かれた城で、この手の崖端城としてはかなり規模の大きな城である。そして、縄張りも極めて特異である。直線的な堀と土塁を主体とし、外周に幾重にも堀を巡らした梯郭式の縄張りは岡本城などと類似しているが、直線的な堀の数ヶ所に出枡形状の櫓台を張り出して局所的に横矢を掛ける構造で、近世平城ではない中世城郭では他に類例が少ない。特に最外周の6号堀には合計5ヶ所の櫓台の張出しを設けており、ひたすら一直線に伸びる長大な堀と相まって、中世城郭というより古代城柵の様な印象である。その一方で堀も土塁も中程度の規模しかなく、張り出した櫓台にどれほどの防御力があったのかはやや疑問も感じる。一方、ニノ郭(現地表記では曲輪Ⅳ)南辺は比較的大きな横矢掛かりが設けられ、堀底には畝が構築されていて、厳重な防御線を構築していたことがわかる。この他、三ノ郭(現地表記では曲輪Ⅵ)の東側の虎口には角馬出が設けられているのも特徴的である。東側や内郭の堀・土塁は復元整備されたものである為、あまりに形が整いすぎていて興を削ぐが、南側の堀と土塁は古い形状のまま残っており、見応えがある。さすがは栃木県内でも有数の国指定史跡の城だけのことはある。尚、鬼怒川の河川敷から見る段丘上の飛山城は、見るからに要塞の如くそびえる屈指の要害である。
ニノ郭の横矢掛かり→DSC01624.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=36.55653&lon=139.965593&z=16&did=std&crs=1
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