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生実城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9568.JPG←生実神社裏に残る空堀
 生実城は、北小弓城とも呼ばれ、千葉氏の重臣原氏が、小弓城に代わって新造したとされる城である。元々原氏は小弓城を居城としていたが、足利義明を奉じた真里谷武田信保に城を奪われ、そのまま小弓公方の居城となっていた。1538年の第一次国府台合戦で小弓公方が滅亡すると、原胤清は北条氏綱と共に小弓城を奪還したが、翌39年、小弓城の北1.5kmの位置に、新たに生実城を築いて居城とした。1557年、臼井城主臼井景胤はその死に当たり、若い久胤の後見として、同族であった原胤清の子胤貞を臼井城に入れる様遺言し、胤貞は実質的に臼井城主を兼任した。1561年、上杉謙信の関東出陣に呼応して、里見方の大多喜城主正木時茂は下総に侵攻し、臼井城、次いで生実城も攻め落とし、胤貞は城を捨てて逃れた。しかし謙信が越後に帰国すると、再び北条氏は奪われた城を奪還し、胤貞も生実城に帰城したと思われる。1564年、北条氏康が第二次国府台合戦で里見氏に勝利すると、胤貞は臼井城を奪還した。1571年、生実城は再び里見氏に攻略され、原胤栄は本拠を臼井城に移した。後に、胤栄は生実城を奪還したが、1590年の小田原の役の際に徳川家康の重臣酒井家次と野田十門字野で戦い、討死したと言う。その後は、徳川幕府の直轄領などを経て、1627年に森川出羽守重俊が生実藩に一万石で入部し、旧城の一郭に陣屋を構えた。そのまま陣屋は森川家共々幕末まで存続した。

 生実城は、低湿地帯に囲まれた段丘先端に築かれた城である。昭和40年代初頭までは城の主要部を始めとする多くの遺構が残っていたが、その後の宅地造成によって遺構の殆どは湮滅し、かつてのニノ郭に当たる本城公園などの名前にその名残を残すに過ぎない。しかし、生実神社の裏には陣屋東側の大規模な空堀が一部残存するほか、県道66号線のかつての大手口付近には、石碑の後ろに土塁が残り、その外側に堀跡が窪地となって残っている。全部とはいかなくても、せめて城の中心部だけでも遺構の破壊が免れていたらと今更ながら惜しまれる。
大手口の土塁→IMG_9540.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.566755&lon=140.145304&z=16&did=std&crs=1
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