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小弓城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9481.JPG←外郭の大空堀
 小弓城は、戦国前期に房総半島で勢威を誇った小弓公方足利義明の居城として名高い城である。元々は千葉氏の支城で、千葉城(猪鼻城)築城の頃に南部の守りの要衝として築かれ、一族で重臣であった原氏を小弓城に置いて守らせた。時代は下って室町後期の1455年、鎌倉公方足利成氏は、亡き父持氏の仇の子である関東管領上杉憲忠を謀殺し、関東を二分する大乱が生起した。これが享徳の乱である。この余波で下総では千葉氏内部に内訌が生じ、小弓城主原胤房は成氏方に付いて、馬加城主馬加康胤と共に上杉方の宗家千葉胤直・胤宣父子を攻撃した。千葉胤直・胤宣は千葉城を逐われ、敗走した胤直は弟胤賢と共に志摩城に立て籠もり、嫡子胤宣は多古城に立て籠もった。しかし両城共に攻囲されて落城し、胤宣は付近の阿弥陀堂で自刃し、胤直も東禅寺に逃れて自刃し、千葉宗家は滅亡した。以後、馬加康胤の系統が千葉介となって宗家に取って代わった(後期千葉氏)。原胤房の跡は、嫡子胤隆が跡を継ぎ、1509年には連歌師宗長が胤隆に招かれて、小弓館で猿楽や連歌に興じたことが知られている。1517年、原氏と抗争を繰り広げていた真里谷城主武田信保は、古河公方足利高基の弟義明を擁立して小弓城を攻撃し、攻略することに成功した。この後、足利義明は小弓城を居城とし、ここに小弓公方足利氏が成立した。以後、1538年の小弓公方滅亡まで、房総半島において大きな勢威を振るった。1534年、小弓公方の後ろ盾であった真里谷武田氏家中で内訌が生じ、跡目を巡って小弓公方と小田原北条方とに分裂して抗争を開始した。小弓公方足利義明は、里見氏も傘下に従え、大軍で椎津城を攻略し、1537年に造海城をも攻め落とし、真里谷武田氏家中の北条方勢力を一掃した。又この時、北条氏綱が援軍として派遣した大藤金谷斎栄永の拠る真里谷新地城も攻め降し、氏綱は義明に懸命に詫び言を入れて、北条方将兵の帰還を許された程であった。義明は家格もさることながら、勇将の器であったらしく、この時代の房総半島はまさに小弓公方を中心にして動いていた感がある。そんな義明も、翌年あっけない幕切れを迎えることとなる。1538年、古河公方足利晴氏と対立していた義明は軍を率いて北上し、相模台城に陣を敷いた。一方晴氏は、当時既に関東最大の勢力にのし上がっていた北条氏綱に義明討伐を要請したとされる。上意を受けた氏綱は、進軍して松戸台に陣を敷き、相模台城を中心に両軍で激戦が展開された(第一次国府台合戦)。北条勢は合戦に勝利し、小弓公方勢は当主義明以下、嫡子義純、弟基頼らが討死し、小弓公方家は滅亡した。その後、原胤清は北条氏綱と共に小弓城を奪還し、間もなく北方に新城(生実城)を築いて本拠を移したとされる。

 小弓城は、平坦で広大な段丘上に築かれた城である。城内は、大半が畑に変貌し、一部は宅地や墓地となるなど改変が激しく、明確な遺構はほとんど残っていない。古城という地名の残る城趾南西端が主郭で、この周囲に空堀があったらしいが、これも既に埋められてしまっており、全く確認できない。主郭跡の墓地周辺にわずかに土塁が残っているが、どこまで往時のまま残っているかは判断が難しい。最も明確な遺構は千葉市埋蔵文化財調査センターの裏にあり、外郭を区切っていた大きな空堀と物見台らしい大きな土壇が残っている。この他、北門跡とされる部分にも土塁や、切通し状の小道が残り、また八剣神社周辺にも堀状の車道や天神社の鎮座する土壇が確認できる。一時期、房総半島を席巻した城であるが、今となってはその遺構の多くは時の彼方に消えてしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.554414&lon=140.150776&z=16&did=std&crs=1
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