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平松城(千葉県南房総市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9301.JPG←主郭の堀状窪地と櫓台
 平松城は、安房の豪族安西三郎景益の居城と言われている。1180年、頼朝は、平家の専横を憎む以仁王の令旨を受けて、平家打倒の兵を挙げたが、攻め寄せた大庭景親らの平家軍と石橋山で戦い、衆寡敵せず大敗した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、土肥実平の手引によって真鶴の岩海岸より小舟で脱出し、安房へ落ち延びた。猟島に上陸した頼朝は、北条時政、三浦義澄らに迎えられて合流した。この時、房総諸豪の中で最初に参向したのが安西景益であったと言われる。この後、房総一の兵力を擁していた上総介広常の元へ向かうべく、長狭に移動し、ここで平家方の豪族長狭常伴の襲撃を一戦場で撃破して、景益の館に入ったと言う。この頼朝が入ったのが平松城ではないかとする説が提起されている。その後の平松城の歴史は定かではないが、戦国期の里見氏時代に、その家臣安西式部の城館であったともされる。一方、安西氏の居城としては、勝山城が知られており、平松城との関係には不明点がまだ多い様である。

 平松城は、県道296号線の北側にそびえる標高70m、比高50m程の丘陵上に築かれた城である。市指定史跡となっているが、明確な遺構には乏しい。県道から小道を登って行くと、やがて堀切状の切通し道に至り、解説板と標柱が建っている。ここからの登道はおそらく往時の虎口だったと思われ、側方に段曲輪らしい平場を伴っている。その上は果樹園となった緩斜面で、ニノ郭に当たる平場と考えられる。その先は再び登道となり、頂部の主郭に至る。しかし明確な切岸はなく、周囲に腰曲輪らしい平場もあるが、後世の耕地化による改変の可能性も考えられ、遺構かどうかはっきりしない。また主郭南端には堀切状の窪地の先に櫓台状の土壇がある。明確な城郭遺構と呼べるのは、このぐらいのものである。かなり古い形態の城で、戦国期には砦程度の機能しかなかったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.028543&lon=139.912017&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世山城
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