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位田城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_8344.JPG←高城の段曲輪群
(2014年4月訪城)
 位田城は、丹波国内を揺るがした「位田の乱」の震源地となった城である。元々は南北朝期に位田次郎晴長が築き、後の戦国初期には位田五郎兵衛晴定が拠っていたと言われている。この頃、管領・丹波守護の細川政元の側近であった丹波守護代上原豊前守元秀は、領内で横暴な政策を強行した為、丹波の国人衆の不満が募っていた。そして1489年11月6日、遂に萩野氏・大槻氏らを主体とした丹波の国人達は、上原豊前守元秀・同紀伊守賢家の圧政に抵抗して挙兵し、位田城に立て籠もった。これが「位田の乱」である。この丹波国人一揆に対して、守護方は丹波・但馬・摂津など13ヶ国の大軍を動員して攻め寄せたが、一揆勢の守りは固く、一年間にわたって抗戦を続けた。しかし1490年11月10日、一揆勢は城に火を放って自落したと言う。ところが翌年には一揆勢が再起して位田城など7つの城を占拠して反乱を続け、結局乱が鎮圧されたのは1492年の位田城陥落の時であった。その後の位田城の歴史は明確ではないが、一説には1561年に萩野肥前守が拠ったとされ、その後1572年に明智光秀によって落城したとされる。

 位田城は、由良川の北岸にそびえる標高212.2mの高城山と、その西峰続きの標高150mの低城山に築かれている。山の名の通り、高城と低城の2つの城域に分かれているが、それ以外にも2城の中間に中城とも言うべき出丸があり、また高城山の中腹と麓近くにも平場が築かれている。基本的には曲輪群を段状に連ねた簡素な構造で、堀切はあるがいずれも規模が小さい。また、訪城時は縄張図が入手できていなかったのであまり気付かなかったが、この城には畝状竪堀が穿たれている。しかしいずれも規模が小さく、写真を見返して見ても笹薮などが生い茂っていてほとんど確認できないレベルである。
 南東山麓からハイキングコースを登って行くと、すぐに開けた平場があり、土塁と堀切が穿たれている。そのやや上に「たて堀跡」と書かれた標識があり、小さな竪堀が藪の中に残っている。更に暫く登ると、「陣屋跡」の標識のある小郭がある。これは陣屋というより木戸口だったのだろう。その先に高城があるが、手前に小堀切があり、4~5段程の段曲輪群だけで構成された簡素な縄張りである。ここから西の低城へと降っていくと、小堀切の先に細長い西郭がある。西郭の先端部に竪堀が確認できる。しばらく尾根を歩くと堀切があり、中城となる。中城は前後を堀切で防御しており、前側(西側)の方が深くなっており、低城からの接近を阻止しているのがわかる。ここにも畝状竪堀が穿たれているらしいが、笹薮でよくわからない。低城手前の細尾根の畝状竪堀も同様である。低城も高城と似たようなレベルの小城で、小さな腰曲輪を数段伴っている。ここの畝状竪堀も薮でよくわからない。低城の南の尾根には大手の曲輪群などが数ヶ所に見られ、山麓近くで一部が墓地となっている部分にも数段の平場と堀切が見られることから、ここも城域であったことがわかる。位田城は、思ったよりも城域が広く、また畝状竪堀があるとは言うものの、比較的古い形態を留めた古風な縄張りの城である。
山麓平場の土塁と堀切→IMG_8326.JPG
IMG_8381.JPG←中城前面の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.317763&lon=135.247446&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世山城
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