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丹波亀山城(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_6261.JPG←内堀跡
 丹波亀山城は、明智光秀が築いた丹波攻略の拠点城郭である。元々室町時代に小規模な城砦があり、戦国時代には丹波守護代内藤氏の一族内藤忠行が居城としていたと言う。1575年、明智光秀は細川藤孝と共に織田信長より丹波攻略を命じられた。丹波は、古より京の背後を扼し、山陰・山陽に繋がる街道を押さえる要衝で、京の安定的な確保と来るべき中国の毛利攻めには無くてはならない土地であった。1575年2月、老ノ坂を越えて丹波に入った光秀は、内藤忠行に亀山城で迎えられ、赤井直正の黒井城攻めを進めるが、八上城主波多野秀治の策略によって大敗を喫し、居城の近江坂本城まで総退却した。この時亀山城も波多野氏の手に落ちた。その後、2年程の間、亀山城を巡って一進一退が繰り返され、ようやく亀山城を確保した光秀は、1577年に亀山城を修築して丹波攻略の拠点とした。1579年、5年の歳月を掛けて丹波を攻略した光秀は、その功を信長から絶賛され、丹波一国を与えられた。1582年5月、光秀は信長より中国毛利攻めに当っていた羽柴秀吉の援軍を命じられたが、亀山城を出立した光秀の軍勢は、西へ向かわず老ノ坂を越えて京へ入り、信長の宿所となっていた本能寺を急襲した。本能寺の変である。しかし信長を討った光秀の天下は長くは続かず、中国大返しで急進してきた秀吉と山崎で戦って敗れ、光秀は落ち武者狩りに襲われて滅亡した。光秀滅亡後、1583年には羽柴秀勝、1590年には羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が城主となり、その後は石田三成、前田玄以などが城代となった。1609年、岡部長盛が城主となり、翌年、徳川家康は亀山城の天下普請を発令した。この時、今治城主であった藤堂高虎は、自身が創出した初の層塔型天守であった今治城天守を家康に献じ、亀山城に移築された。江戸時代には、多くの城主の変遷があったが、城は幕末まで存続した。

 丹波亀山城は、桂川南の台地を利用して築かれた平山城で、現在大本教の聖地「亀岡天恩郷」に変貌している。大規模な近世城郭らしく、かつては惣堀まで含めて3重の堀に囲まれた石垣を多用した城であったが、明治以降大きく破壊されてしまい、大本教が城址を購入して整備をするも、昭和に入って大弾圧を受け、爆破までされたと言う。戦後、再び大本教が城址を再建し、石垣などを積み直した。従って、現在残る石垣はほとんどは戦後に積み直されたもので、往時のものはほとんど残っていない。城の中心部は前述の通り大本教の聖地となっているが、受付に申込んで簡単なお祓いを受ければ、城址を歩くことができる。但し、天守台などは立入禁止の聖域のため、周囲から石垣を眺めるしか無い。受付の方の話では、天守台近くにある井戸のみ往時のままであるらしい。この他、往時の内堀跡が池となって残っている。城の北側にも大きな内堀が南郷公園となって残り、市内にも外堀などがわずかに公園化されて残っている。いろいろな意味で悲運の城であるが、宗教団体と行政が協力して城跡を大切に残しており、また部外者の見学にも開放的で、非常に好感が持てる。
市内に残る外堀跡→IMG_6257.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.013556&lon=135.581002&z=16&did=std&crs=1
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