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神宮寺城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6057.JPG←主郭の土塁と空堀がお出迎え!
 神宮寺城は、南北朝時代に南朝方の柱石であった北畠親房が、常陸に入って最初に拠った城である。建武の新政が瓦解し、吉野で南朝を樹立した後醍醐天皇であったが、1338年に主戦力であった新田義貞、北畠顕家(親房の嫡男)を戦場で失い、勢力再建が急務となった。そこで閏7月に自らの皇子である義良親王・宗良親王・懐良親王を伊勢を経由して、それぞれ奥州・遠州・九州の各地の南朝勢力の元に派遣し、勢力挽回を企図した。この内、義良には親房とその次男顕信を付けて海路奥州に下したが、9月に途中の遠州灘で暴風に遭い、兵船は四散、義良は伊勢に吹き戻されて、翌年吉野に戻って皇太子となった(後の後村上天皇)。一方、親房は常陸に漂着し、南朝方の地頭東条氏に迎えられて神宮寺城に入り、ここを東国経営の拠点として活動を開始した。しかし間もなく、北朝方の武家である佐竹義篤(常陸守護)・大掾高幹・烟田時幹・鹿島幹寛・宮崎幹顕らの軍勢に攻められ、10月5日あえなく落城した。親房は阿波崎城に逃れ、更に小田城関城へと転戦した。しかし1343年、鎌倉府執事の高師冬の軍勢によって関・大宝両城は陥落し、常陸の南朝方は壊滅、失意の親房は吉野に舞い戻った。その後の神宮寺城の歴史は不明である。

 神宮寺城は、国道125号線西側の台地上に築かれた平城である。普通であれば、台地辺縁部の段丘地形を利用して要害を築くところだが、この城はやや奥まった平地にある。遺構は一部湮滅しているものの良好に残っている。主郭・ニノ郭・三ノ郭の3つの曲輪を並べ、土塁と空堀で分断している。主郭には虎口と土橋も良好に残り、隅櫓台も築かれている。ニノ郭との間を隔てる主郭南側の空堀はクランクして横矢が掛かっており、南北朝期の遺構とは考えにくく、戦国期に使用された可能性がある。一方、ニノ郭・三ノ郭の空堀は直線的で、古い形態をそのまま残していると思われる。主郭西側は畑や民家となって一部湮滅している。この城は元々訪城の予定外であったが、たまたま千葉の城巡りからの帰りに通り掛かり、まだ陽があったので迷うこと無く訪城した。南北朝時代からの古い平城にしては予想以上に良好に遺構が残っている。
主郭外周の土塁→IMG_6111.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.955714&lon=140.369033&z=16&did=std&crs=1
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