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足利城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSC01467.JPG←主郭背後の堀切
(2006年11月訪城)
 足利城は、両崖山城とも言い、室町後期から戦国時代にかけて足利を本拠とした足利長尾氏の居城である。元々の創築は古く、1054年に藤原秀郷の後裔足利成行が足利荘に入部して築いたと言われる。この成行の系統を、世に藤姓足利氏と言い、源姓足利氏の台頭以前はこの地に大きな勢力を有していた。藤姓足利氏は、以後成綱・家綱・俊綱・忠綱と続いたが、源平合戦の際に忠綱は平家側に付いて敗北滅亡し、足利荘は源姓足利氏の有に帰し、足利城は一旦廃城となった。
 時代は下って室町後期の1454年、鎌倉公方足利成氏が対立する関東管領上杉憲忠を誅殺し、享徳の大乱が勃発した。出陣中に鎌倉を奪われた成氏は古河に奔って古河公方となり、以後利根川を境にして古河公方勢力と上杉氏勢力が関東を二分して争った。その最中の1466年、関東管領山内上杉氏は重臣の長尾景人を足利荘の代官として入部させ、景人は勧農城を築いて居城とした。これが足利長尾氏で、勧農城は古河公方方に対する上杉方の軍事駐屯基地として機能した。景人の子景長の時、廃城となっていた足利城を新たに取り立てて、足利長尾氏の居城とした。長尾氏は山内上杉氏の重臣であった為、当初は上杉氏の居城上野平井城近くに居館を構え、足利城には城代を置いていたが、1546年の河越夜戦で小田原北条氏が山内上杉氏を駆逐して関東南半の覇権を握ると、長尾政長(後、景長に改名)は北条氏に屈して足利城に本拠を移した。1560年に越後の上杉謙信(長尾景虎)が関東に出陣すると、同族であった政長は謙信の元に参陣し、戦功によって館林城女渕城を与えられ、館林に居城を移した。1566年、北条氏の北関東への勢力伸長に伴って景長は再び北条氏に帰属した。1568年、武田信玄の駿河侵攻によって甲相駿三国同盟が崩壊すると、翌69年、景長は隣接する上野金山城主由良成繁と共に越相同盟の交渉を仲介した。同年、景長が没して、養子に迎えていた由良成繁の子顕長が家督を継ぐと、足利長尾氏と由良氏は強固に結ばれ、一体となって行動する様になった。1571年、越相同盟が破棄されると再び北関東で北条・上杉両勢力の抗争が行われるようになったが、北条氏の優勢で事態は推移し、長尾・由良両氏は反北条方との最前線に位置した。1578年に上杉謙信が急死し、御館の乱が勃発して北条氏政の弟上杉景虎が敗死すると、北関東の情勢は再び流動化し、甲越同盟の締結と甲相同盟の破棄で、武田勝頼や佐竹義重の侵攻も受けるようになった。1582年、武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、わずか3ヶ月後にその信長も本能寺で横死すると、天正壬午の乱を通して北条氏は徳川家康と同盟を結び、北条氏は圧倒的な実力を以って北関東への攻略戦を開始した。しかし翌83年、由良国繁・長尾顕長兄弟が突如北条方から佐竹方に離反して北条方の小泉城を攻めた。一説には、上野の重要拠点厩橋城を攻略した北条氏直の元に由良国繁・長尾顕長兄弟が出仕した際、氏直が両者本城の借用を申し入れたところ、家臣たちが所領没収と思い込んで本城に戻って北条方から離反したとも言う。これに対応するため北条勢は金山城・館林城を攻撃した。これを契機として、翌84年、下野南部で北条軍と佐竹・宇都宮連合軍が対陣し、沼尻合戦が生起した。この合戦については、『戦国時代の終焉』(中公新書)に詳しい。3ヶ月の対陣の後、引き分けに終わったが、戦後処理の中で北条勢は金山城・館林城を攻め落として接収し、降伏した由良国繁は桐生城に、長尾顕長は足利城に移された。これより顕長は、隣接する反北条方の佐野領攻略を命じられ、1585年の須花坂合戦では唐沢山城主佐野宗綱を敗死させた。1588年8月、長尾顕長は再び北条氏と事を構え、翌89年正月に足利城攻防戦が行われ、翌月落城した。この時点で足利城は破却され、顕長は小田原に在府となった。またこの事態の余波で、由良国繁も小田原に在府となり、桐生城も破却された。1590年の小田原の役の際には、長尾顕長は小田原城に籠城して北条氏と共に滅亡した。

 足利城は、標高251m、比高211mの両崖山に築かれた山城である。「両崖」とは「要害」の転訛であろう。戦国末期まで使用された城であるが、あくまで詰城の位置付けであったらしく、山頂の狭小な主郭を中心に、三方の尾根に曲輪群を配し、要所を比較的小規模な堀切で分断しただけの旧態依然とした縄張りである。虎口にも特に技巧的な部分は見られず、小なりとは言え戦国大名の本城としては随分小振りな造りである。これは戦国末期に足利城を居城とした時には逼塞を余儀なくされており、大々的な城普請の余力がなかったからかも知れない。尚、城へはハイキングコースが整備され、主郭とその周囲の腰曲輪には神社が置かれているため、やや改変を受けている。その為、主郭背後のハイキングコース沿いに小規模な石垣が確認できるが、遺構とは俄に断じ難い。全体に受ける印象としては、どちらかと言うとハイキング気分で登った方が良い城である。
神社の置かれた主郭→DSC01456.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=36.353507&lon=139.447943&z=16&did=std&crs=1
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