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小西城(千葉県大網白里町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_2475.JPG←腰曲輪と主郭切岸
 小西城は、千葉氏の重臣原氏の一族小西原氏の居城である。築城時期には諸説あって明確ではないが、室町後期の15世紀後半には、この地に入部していたらしい。この地は土気東金の両酒井氏の領国の中間に位置することから、戦国時代には両者の連携に楔を打ち込む目的で機能したと推測される。その後数代を経て、原能登守胤継は1570年に里見氏と戦って千葉寺下で討死したことが本土寺過去帳によって確認されると言う。この頃までは小西城も存続していたものと考えられる。

 小西城は、雄蛇ヶ池の南西に伸びる比高60mの丘陵上に築かれている。つい5年ほど前まで遺構は完存していたが、その後の圏央道の建設で城の主要部が破壊されてしまっている。しかし、わずかに城域の南東部分が残存している。かつての縄張図を見ると、空堀で囲まれた主郭と、その北側に中城・外城と呼ばれる外郭、それと主郭南西に突出した古城と呼ばれる出郭で構成され、それらの周囲に腰曲輪を幾重にも築いていた様である。現在残っているのは、主郭の1/3程とその南と東の腰曲輪群、そして南東の支尾根に築かれた堀切群と物見台である。主郭の北側にはわずかに空堀も残っている。腰曲輪は明瞭で、切岸もはっきりしている。南側の腰曲輪には曲輪を分断する竪堀も確認できるが、この辺は倒竹が多く確認が難しい。南東尾根遺構は上総の細尾根城郭的な造りであるが小規模なもので、小堀切が多数穿たれ、小ピークを物見台にしている程度のささやかなものである。これら以外は全て湮滅してしまっているが、主郭西には空堀で分断され、木橋を架けて連結された虎口に繋がる帯曲輪など、戦国後期の技巧的構造もあったらしい。わずか5年程の差で、貴重な遺構が失われたことは誠に残念である。既に人口減少に転じて老大国への道を歩んでいる日本で、貴重な城郭遺構を破壊して道路を作ることにどれほどの価値が有るのか、政治家や官僚によく考えて欲しいものである。
南東尾根の堀切→IMG_2541.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.554093&lon=140.315819&z=16&did=std&crs=1
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