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結城城(茨城県結城市) [古城めぐり(茨城)]

DSC01161.JPG←主郭西側の堀跡
(2006年10月訪城)
 結城城は、下総の名族結城氏の歴代の居城である。藤原秀郷の後裔で下野有数の豪族小山政光の3男朝光は、母の寒川尼が頼朝の乳母であった関係で頼朝の寵遇を受け、結城氏の祖となった。結城の地に入部して築いた居館は城の内館であったと推測されており、結城城が築かれたのは南北朝時代頃であったと考えられている。結城氏は、南北朝の動乱では本家に当たる小山氏と共に一貫して足利尊氏に従って軍功を挙げ、後の発展の礎が築かれ、室町時代には鎌倉公方から関東八屋形の一つに列せられ、大きな勢力を有した。結城氏が天下にその名を轟かすのは、1440年の結城合戦の時である。鎌倉公方足利持氏は、新将軍足利義教に反抗的態度を取り、これを諌める関東管領上杉憲実とも対立し、ついに1438年、永享の乱が勃発した。この時、将軍義教は諸国の武家に動員令を発し、上杉憲実を助けさせた。持氏は、大軍に攻められて敗北し、滅亡した。しかしその遺児春王丸・安王丸は逃れて無事だった為、結城氏朝は春王丸・安王丸を奉じて結城城に立て籠もり、幕府に反旗を翻した。これが結城合戦である。結城方には反上杉派の諸武家が呼応し、一方、幕府も再び10万とも言われる大軍を送り込んで結城城を取り囲んだ。戦いは、籠城軍の奮戦によって1年余りにわたって続いたが、遂に落城し、結城氏は滅亡した。しかし後に持氏の子成氏が鎌倉公方になると、結城成朝を取り立てて父達に尽くした結城家を再興させた。成氏が享徳の乱を勃発させると、結城氏は成氏方として上杉方と戦った。結城氏の麾下には「結城四天王」と呼ばれる重臣がいたが、独立領主的傾向を強め、特に多賀谷氏は度々主家の結城氏に反抗的態度を取ったが、結城政朝・政勝の頃はこれらの重臣層の掌握に努めつつ、小田氏や宇都宮氏など周辺大名との抗争に対処した。戦国後期に入ると、関東では小田原北条氏と越後上杉氏の2大勢力が激突し、関東諸将はその狭間で揺れ動くこととなった。結城氏も、その時々の情勢に応じて上杉氏=佐竹氏側に付いたり、北条側に付いたりと態度を変転させた。そんな中の1556年、結城政勝は分国法「結城氏新法度」を定め、領内の統制を図った。1590年の小田原の役の際には、結城晴朝は豊臣秀吉に通じて、北条方の祇園城榎本城を攻略した。この功によって、結城氏は豊臣大名として生き残ることができ、徳川家康の次男で秀吉の養子となっていた秀康を養子として迎え入れ、家督を継がせた。関ヶ原合戦後の1601年、結城秀康は功によって越前に転封となり、養父晴朝もこれに随行して関東大名としての結城氏の歴史は終わりを告げた。この時、結城城も廃城となったが、江戸中期の1700年に水野勝長が1万8千石で入部し、結城城を再興して明治まで水野家歴代の居城となった。

 結城城は、田川曲流部の氾濫原に張り出した、比高10mに満たない低台地上に築かれた城である。現在は市街化によって大半の遺構が湮滅しているが、わずかに主郭周囲の堀の一部と、外周の切岸が残っている。堀はかなり浅くなっているが、主郭西側の堀はかなりの広さがあったらしく、広い窪地が横たわっている。主郭南側にも堀が薮に埋もれて残っている。現在残る遺構としてはこのぐらいのものであるが、電子国土の昭和20年代の航空写真を見ると、浮島の様な曲輪を分断する堀が、もっと明瞭に残っていた様である。また、現在見る限りではとても大軍を相手に1年も持ちこたえられる様な城には見えないが、往時は周りを全て低湿地帯で囲まれており、屈指の要害地形だったものであろう。しかし歴史上にも名高い名族の城としては、やや物足りなく感じるのは致し方のないところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=36.307579&lon=139.885577&z=16&did=std&crs=1
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