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勝浦城(千葉県勝浦市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6562.JPG←八幡神社裏の堀切
 勝浦城は、勝浦正木氏の居城である。伝承では、天慶年間の平将門の乱の時に将門から上総介に任じられた興世王が築いたとも言われるが、元より伝説に過ぎない。戦国時代前期に真里谷武田氏が築いた城砦であったが、真里谷武田氏の衰退に乗じて東上総へ侵入した正木氏の一族時忠(大多喜城主正木時茂の弟)が、1541年頃に勝浦城を攻略して居城とした。正木氏の宗家に当たる時茂は里見氏の同盟者として上総に勢力を張ったが、時忠は1564年の第二次国府台合戦の後、里見氏から離反して小田原北条氏に付いた。その後、一宮城を攻略するなど反里見方として活動したが、里見氏の勢力回復に伴って次第に圧迫され、1577年に北条・里見両家の間で和睦が成立すると、勝浦正木氏は里見方に復した。1590年、豊臣秀吉の仕置きによって里見氏が上総を没収されると、勝浦城主正木頼忠も城を明け渡して安房に移った。尚、頼忠の娘於万は、後に母が伊豆河津城主蔭山氏広と再婚し、沼津本陣で徳川家康に謁見した際、見染められてその側室となり、頼宣(紀州徳川家の祖)・頼房(水戸徳川家の祖)の二子を生んだ。

 勝浦城は、勝浦湾東側の八幡岬に築かれた城である。以前は岬先端部の、現在公園化されている部分のみが勝浦城と認識されていたが、近年の研究によって尾根伝いにかなり北方まで城域が伸びていることが確認されている。基本的には南北に伸びた尾根上に曲輪群を連ねた長大な城である。岬の南端部には、断崖絶壁に囲まれた海抜34mの主郭があり、台地基部に向かってニノ郭、三ノ郭などが尾根脇の平場として展開している。しかし公園化による改変が進んでおり、どこまで往時の遺構を残しているのか定かではない。唯一、小ピーク上に鎮座する八幡神社付近は櫓台としての遺構を留めており、北西と北東の尾根筋に比較的大きな堀切がそれぞれ穿たれている。更に北西尾根の先に中規模の堀切がある。この本城域からやや北に離れた新地ヶ台と呼ばれる地区に、外郭に当たる曲輪群が築かれている。特に新地ヶ台は大きく、多数の腰曲輪を伴った曲輪群で構成され、その北に小堀切を介して長い曲輪群が連なっている。途中には曲輪間を繋ぐ長い土橋状の遺構も確認できる。尾根の側方には広い腰曲輪も築かれていて、そこそこの兵が籠められたことが伺われる。但しこれらの外郭部は、冬場でも下草が生い茂っているので、平場があるのはわかるが、遺構の形状確認はなかなか難しい。もう少し整備されることを望みたい。
曲輪間をつなぐ土橋→IMG_6640.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.135341&lon=140.31128&z=16&did=std&crs=1
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