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土気城(千葉県千葉市緑区) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3772.JPG←ニノ郭の大規模な空堀
 土気城は、上総北東部に武威を振るった土気酒井氏の歴代の居城である。伝承によれば元々は、古く聖武天皇の神亀年間(724~29年)に、鎮守府将軍大野東人が蝦夷に対する軍事拠点として築いた「貴船城」が前身であったと伝えられている。時代は下って1488年、中野城主酒井定隆がこの城を修復して入城し、以後5代約100年に渡る居城となった。酒井氏の出自は諸説あって明確ではない。いずれにしても、享徳の乱や長享の乱で争乱の打続く関東にあって、千葉氏に従属して戦功を挙げ、次第に勢力を拡張し、土気城に本拠を移した。戦国時代に入ると関東では小田原北条氏が勃興し、房総半島でも小弓公方足利義明やそれを支援する安房里見氏との間で軍事的対立が起こった。この中にあって酒井氏は、当初は小弓公方に属したが、1538年の第一次国府台合戦で小弓公方が滅亡すると一旦北条氏に降った。しかしその後里見氏が勢力を盛り返し、1564年、再び国府台で北条氏と干戈を交えると(第二次国府台合戦)、土気酒井氏は里見方に付いて敗北した里見勢の退却を支援した。このため翌65年から土気城は北条氏の攻撃を受けるようになった。城主酒井胤治は頑強に抵抗して善戦したが、1567年、遂に北条氏に降った。以後は北条氏の他国衆として活動し、1590年の小田原の役では、土気城主酒井康治は軍勢を率いて小田原城に籠もり、北条氏と命運を共にして没落した。一方、土気城は豊臣方の浅野長政に明け渡され、そのまま廃城となった。

 土気城は、比高60~70m程の台地東端部に築かれた城である。かなり大規模な城で、台地の北東端に主郭を置き、その外側を囲む様にニノ郭・三ノ郭を廻らした梯郭式の縄張りとなっている。現在主郭とニノ郭は「ひまわりの郷」と言う高齢者用マンションとなっており、内部に無断で入ることはできないが、ニノ郭外周には巨大な空堀が残っている。薮がややひどいが、大規模な横矢が掛けられた深さ10m程の巨大空堀で、圧巻の規模である。ニノ郭側には隅櫓台が築かれて堀底を睥睨し、空堀の一部は巨大な二重横堀となり、中央に土塁が巨大な障壁となってそびえている。また三ノ郭外周にもやはり規模の大きな空堀と土塁が廻らされている。東側にある井戸沢曲輪にも大きな堀と土塁が築かれ、外側に丸馬出とされる半月状の小郭が残っている。一方、主郭の東側の尾根にも腰曲輪群が築かれ、主郭北東部には横堀も確認できる。ここから主郭北側斜面をトラバースしていくと、主郭~ニノ郭間の空堀が竪堀となって落ちているのが確認できる。土気城は、空堀の巨大さと大規模な横矢掛かりから考えて、北条氏の築城技術が本格導入された戦国末期の城だったと考えられる。しかし如何せん物凄い薮城で、畑となった曲輪以外は遺構の確認が大変で、せっかくの遺構が薮に埋もれていて勿体無い。
三ノ郭外周の土塁→IMG_3721.JPG
IMG_2449.JPG←井戸沢曲輪の丸馬出
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆(薮の分、減点)
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.531098&lon=140.291304&z=16&did=std&crs=1
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