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徳山城(静岡県川根本町) [古城めぐり(静岡)]

DSC01244.JPG←「殿屋敷」の大土塁
 徳山城は、南北朝時代に駿河南朝方の最後の拠点となった城である。1353年、在地土豪の鴇(土岐)氏は、居館の東方にそびえる無双連山に徳山城を築き、周囲にも萩多和城護応土城などの城砦群を構築して駿河山間部に立て籠もった。又この時、観応の擾乱で尊氏と争った直義方の武将石塔義房の家人佐竹兵庫入道らも、大津城を攻め落とされた後、南朝方と合力して徳山城に籠もったらしい。将軍足利尊氏の命を受けて今川範氏はこれを討伐し、援将伊達景宗は先鋒として発向し、まず出陣の翌日の2月11日、早くも萩多和城を落とし、尾根伝いに洗沢に抜け、13日には護応土城を攻め落とし、本城の徳山城に迫り、夜襲により落城させたと伝えられている。

 徳山城は、標高1100mの無双連山一帯に築かれた峻険な山城である。山中まで林道が伸びているが、物凄いガレ道で、RVではない普通車は登るのは止めた方が良い。しかも車を降りた標高823mの四差路からでも、本城まで歩いて登るのに1時間近くも掛かる遠い道のりである。そんなわけで、この城に登るにはそれなりの装備と覚悟が必要である。
 徳山城は、まず北端に「清水砦」とされる小ピークがあり、そこから本城までの間は「犬戻り」と呼ばれる一騎駆けの細尾根となる。この一騎駆けは、明らかに両脇を人工的に削り落としている。本城部は「殿屋敷」と呼ばれ、尾根上に削平の甘い緩斜面が広がっているだけであるが、その北斜面には空堀状の窪地や大土塁、切岸など、やはり明らかに人工的な加工の跡を残した地形が見られる。ここから南西に尾根を降って行くと、やはり曲輪らしき緩斜面などが展開しているが、あまり明瞭ではない。途中にある堀切も、鋭さはなく、多少加工の跡を留める程度である。堀切の先の広い平場には中部電力の反射板が置かれ、更にその南西尾根の緩斜面が「陣屋平」、更に三角点のある小ピークを越えて、「鍛冶屋敷」という平坦地に至る。徳山城は、南北朝期の山城でもあるため、戦国期の山城と違って明確な遺構は少ないが、本城部の腰曲輪と大土塁・空堀は見応えがある。また平場状の緩斜面も多数存在する。しかし、南朝方の一土豪の城に、これらの平場を守備できるだけの多数の兵が籠って戦ったのかは、甚だ疑問である。何しろ、清水砦から鍛冶屋敷まで、全長1.3km程にも及ぶ城域で、更に周辺城砦群を備えていたとされるなど、劣勢にあった南朝方にそれほど広大な城砦群が守備できたのだろうか?今後の考究が待たれる城である。
険しい一騎駆け→DSC01225.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.062425/138.152679/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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