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二俣城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC09312.JPG←堀切と蔵屋敷、奥に石垣
 二俣城は、武田・徳川両軍が激しい攻防を繰り広げた城である。創築時期は不明で、戦国時代後期には遠江をめぐって攻防を繰り広げた斯波氏と今川氏が相次いで領有し、1506年頃には今川氏一門の瀬名一秀が二俣城に在城した。その後、堤城主松井左衛門尉信薫、次いでその弟の松井宗信が城主を務めた。今川氏が衰退すると徳川家康が二俣城を攻略し、鵜殿氏長を城番とした。1572年、武田信玄は15代将軍足利義昭の要請を受けて西上戦を開始し、信玄率いる本軍が信濃から青崩峠を越えて遠江に入り、犬居城を経由して二俣城を取り囲んだ。しかし二俣城は頑として落ちず、2ヶ月に渡る包囲戦の上、水の手を断ち切ってようやく落城させた。武田方の支城となった二俣城には、武田氏の家臣依田信守・信蕃父子が城将として入った。その後信玄が病没し、家康は二俣城・犬居城を攻めたが、攻め落とすことができなかった。しかし、1575年5月、長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に大敗すると一気に流れが変わり、翌6月、徳川勢は二俣城奪還の為に4つの付城(毘沙門堂砦・鳥羽山城・蜷原砦・和田ヶ島砦)を築いて包囲攻撃した。また別隊を差し向けて後方の中継拠点、光明城を攻略すると二俣城は孤立化したが、依田信蕃の守る二俣城は奮戦を続け、諏訪原城が落とされてもなお抵抗を続けたが、7ヶ月の籠城戦の後にようやく城を明け渡した。この時、信蕃は、二俣城から堂々と退去して高天神城に入城したと伝えられる。こうして二俣城奪還に成功した家康は、重臣の大久保忠世を城将とした。1579年には家康の嫡子信康が、織田信長の命で二俣城で自刃させられた。1590年、家康が関東に移封となると、忠世も小田原城に移り、二俣城には豊臣秀吉の家臣堀尾宗光(浜松城主となった堀尾吉晴の弟)が入城した。この堀尾氏の下で、二俣城は天守台を持つ近世城郭へと改修された。1600年の関ヶ原合戦の後、廃城となった。

 なお一説には、斯波・今川時代の二俣城とは笹岡古城を指し、現在の二俣城は永禄年間(1558~69年)に徳川氏が領有後、新たに築城したものであるとも言われていることを付記しておく。

 二俣城は、天竜川東岸に屹立する比高40mの城山に築かれた城である。連郭式を基本とした縄張りで、城域の8割程が公園化されている。遺構はよく残っており、枡形虎口・食い違い虎口を有し、石垣の天守台が築かれた本丸や、その南側の大手虎口を有した二ノ丸がある。各虎口には石垣が築かれている他、本丸・二ノ丸共に土塁が外周を巡っている。更に堀切を介して神社の鎮座する北曲輪があり、南にも堀切を介して蔵屋敷の曲輪が配置されている。蔵屋敷にも土塁が築かれ、南側の枡形虎口に臨む櫓台には石垣も残っている。更にその南にも堀切を挟んで南曲輪があるが、この辺りは藪化していて歩くのが大変である。更にその先に堀切があって、先端の物見台らしい土壇で城域が終わっている。この他にも東側と西側に腰曲輪が築かれ、特に西側のものは曲輪間を分断する竪堀が穿たれている。また、本丸の北側にも腰曲輪があるが、その先は北曲輪との間の堀切から落ちる大竪堀で分断されている。それほど技巧的とは言い難い縄張りだが、要所を押さえた造りになっており、歴戦の城の名残を感じさせる。
本丸北の大竪堀→DSC09248.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=34.861848&lon=137.809229&z=16&did=std&crs=1
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