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光明城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC09121.JPG←まるで城の様な寺院跡の石垣
 光明城は、甲斐武田氏が二俣城の背後の押さえとして重視した山城である。元々の創築は、享禄年間(1528~32年)に今川氏輝が北遠の押さえとして朝比奈時茂に築かせたものと言われ、後に朝比奈又太郎泰方が引き継いで在城したと伝えられる。元亀年間(1570~73年)に武田信玄が遠江に侵攻すると、武田方の支城となって城番が置かれるようになった。この頃に城としての体裁を整えたものと推測されており、1573年には武田勝頼が、犬居城・光明城・只来城・二俣城を巡検したことが知られている。光明城は、二俣と犬居、森方面からの街道が山中で交差する交通の要衝であり、犬居城と二俣城を結ぶ中継地点でもあった為、武田方の重要拠点であった。特に武田方からすれば、橋頭堡である二俣城を背後から守り、徳川勢の北遠侵攻を阻止するという役目も担っていたと考えられる。1575年5月、長篠合戦で織田・徳川連合軍が武田方に大勝すると、徳川家康は直ちに遠江攻略に乗り出し、翌6月、二俣城奪還に不可欠であった光明城を、家臣の本多忠勝、榊原康政らに命じて攻略させた。以後、徳川氏の支城となり、二俣城を攻略した後は、二俣城主大久保忠世がその家臣に光明城を守らせた。1582年の武田氏滅亡後、天正壬午の乱で徳川領が信濃まで拡張すると、光明城は戦略的意義が失われ、廃城となったと思われる。

 光明城は、光明山山頂から南南西約700mに位置する、標高489mのピーク上に築かれた山城である。ここには「光明山遺跡」があり、山上まで車道が通り、標識も出ているので迷うことなく来れるが、道路は途中あちこちで落石があり、かなり荒れていたので通るのが大変だった。光明山遺跡は、中世の光明城と近世の光明寺から成る複合遺跡で、光明城の主郭部に築かれた寺院跡は、近世城郭のものと見紛う総石垣の造りである。北側斜面に井戸が残っており、城があった当時も水の手として機能したのだろう。寺院跡から北東に「中曲輪」が広がり、腰曲輪を伴っている。ここには井戸らしき窪みがあり、今でも水が湧き出している。中曲輪の先にも曲輪があり、戦死した徳川方将士を弔った五人塚が築かれている。その先に小堀切があって城域が終わっている様である。近世の改変があるので、俄には判断し難いが、あまり高度な縄張りはなく、あくまで支城網を結ぶ中継拠点的な位置付けで運用された城だった様だ。ただこの山上からの景観は抜群である。
堀切→DSC09198.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.917221/137.858194/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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