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大平城(静岡県浜松市浜北区) [古城めぐり(静岡)]

DSC06506.JPG←東曲輪群の堀切
 大平城は、南北朝時代に遠江南朝方の柱石であった井伊氏の支城である。井伊氏は三岳城を本城とし、周囲に城砦群を築いて北朝の足利方に抵抗したが、大平城は井伊氏の城砦群の内、東方の防衛拠点であった。1339年、足利尊氏は高一族を下向させ、大将の高越後守師泰(尊氏の執事高師直の弟)は大平城に向かい、高尾張守師兼(師直の従兄弟)は鴨江城を陥した後、千頭峯城を落城させた。しかし大平城の守りは固く、翌40年正月、高師泰、仁木義長らの大軍は、先に本城である三岳城を攻め落とした。三岳城の落城後、井伊道政は宗良親王とともに大平城に立て籠もったが、同年8月24日には高師泰、仁木義長ら北朝方の攻撃によって落城し、遠江南朝方の抵抗は潰えた。この後、宗良親王は駿河安倍城に逃れた。その後、大平城は歴史の表舞台から姿を消すが、現在残る遺構からは戦国期の改修の跡が垣間見られるため、戦国期にも利用されたと推測されている。

 大平城は、標高100m、比高60mの東西に広がる尾根上とその南斜面に展開した山城である。基本は連郭式の山城だが、派生する尾根に山裾まで曲輪群を配置しており、全体ではかなり広い城域を有している。地形的には三岳城などより要害性は劣るが、より大きな兵を収容できたため、中々攻め落とせなかったのであろう。五大力神社の所に城址解説板と登り口があり、登り始めてすぐ南の出曲輪群に行き当たる。出曲輪群は、広く削平された曲輪やその上に腰曲輪群と詰丸らしい曲輪が築かれ、本城とは天然の堀切で区画されており、かなり独立性の高い区画となっている。本城域は、主郭を中心に、東西に連なる尾根上に東曲輪群、西曲輪群を展開しており、更に北と南の尾根にも腰曲輪を築いて防御を固めている。要所には堀切が穿たれ、特に西曲輪群の北に派生する曲輪群への堀切は、角度が鋭く規模も中規模の見応えのあるものである。それ以外でも東曲輪群中程の堀切もしっかりと穿たれている。この辺りの遺構は、南北朝時代のものとは明らかに一線を画しており、戦国期の改修と考えられる。一方で、削平の甘い曲輪も多く、特に主郭南側に連なる腰曲輪は、傾斜があって自然地形に近いなど、普請が不徹底な部分も残る。公園化で動線が破壊されている部分もあって、城道がよくわからないこともあり、よりその様に映るのかもしれない。尚、主郭の北尾根下方の曲輪の堀には、水が湧き出しており、水の手の一つだったと考えられる。大平城は、一ノ城・二ノ城から成る三岳城に次ぐ規模の大きさで、北朝方の猛攻にさすがに最後まで持ちこたえた城である。
水の湧く北尾根の堀→DSC06533.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.847784/137.748150/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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