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諏訪原城(静岡県島田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC02722.JPG←大きな丸馬出と空堀
 諏訪原城は、武田勝頼が築いた遠江侵攻の重要な橋頭堡である。その重要性故に、武田・徳川両軍の間で激しい攻防戦が繰り広げられた。その創築は、一説には駿河に侵攻した武田信玄が1569年に金谷台地に築いた5砦の一つとされる。諏訪原城が歴史上に明確に現れるのは、1573年に勝頼が馬場美濃守信房に命じて築城した時である。守将を今福丹波守顕倍とし、ここを拠点として徳川氏の遠江の拠点城郭であった掛川城久野城、更には父信玄さえ落とすことのできなかった難攻不落の要衝高天神城をも攻め落とした。しかし、この勝頼の積極的な外征は、武田氏転落への序章であった。1575年5月、勝ちにはやる勝頼は、長篠・設楽ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を強攻して大敗し、信玄以来の多数の重臣を失った。この戦いを境として、遠江での攻守は逆転し、翌6月には徳川家康は掛川城に入り、諏訪原城に激しい攻撃を掛けた。2ヶ月に渡る激烈な攻城戦の末、武田方の城兵は夜中に諏訪原城を捨てて小山城に逃れ、以後諏訪原城は徳川氏の持ち城となった。家康は、古代中国において周の武王が殷(商)の紂王を牧野(ぼくや)の戦いで撃ち破ったことにちなんで、この城を牧野城と改称し、松平康親、松平家忠、牧野康成らを在番させ、武田領の駿河・遠江東部攻略の前線基地とした。1582年、武田氏が滅亡すると、松平康親は三枚橋城に移り、諏訪原城は明き城となって掛川城に預け置かれた。1589年頃には廃城になったと思われる。

 諏訪原城は、大井川西岸に広がる牧之原台地北端近くに位置する崖端城である。城として実質的に機能したのはわずか10年に満たない短命の城であるが、その規模は雄大で、遺構の充実度も相俟って、屈指の大城郭である。東に向いた台地先端部に主郭を置き、大きな空堀を挟んでニノ郭・三ノ郭を扇状に配置し、更にその外側に幅20m程もある巨大な空堀を穿ち、2ヶ所に巨大な丸馬出を配置し、その他にも小規模な馬出しを数ヶ所設けている。主要な曲輪は、以前は茶畑として開墾されてしまっていたが、現在では市が土地を買い取ったらしく、国指定史跡として整備途上にある。各曲輪や馬出しは、全て土橋のみで連結され、防御を固めている。主郭・ニノ郭・三ノ郭には、いずれも外周に土塁が築かれ、特に主郭の大手虎口の土塁は、どうも大型の櫓門の土台であった様である。主郭の西側下方には、中間に土塁を置いた二重空堀が穿たれ、土塁両端は竪堀で遮断した堅固な造りとなっている。主郭からこの方面に降りる搦手筋には、虎口防衛と二重空堀への横矢掛かりを意図した小郭が置かれ、主郭北側の腰曲輪にも城道が連絡しており、巧妙な動線構造を有している。また、主郭南側の腰曲輪には竪堀が2本穿たれ、その間に小郭がそびえ立って堀底を睥睨している。この竪堀は城道としても機能していた様である。また城域南端には二重丸馬出しも構築されている。丸子城が小技の集積で作り上げられた技巧的山城であるのに対し、諏訪原城は大技の連発で構成された大兵力の駐屯地である。遺構の全てが武田氏時代のものと言う訳ではなく、重層的馬出し部分などは徳川氏時代の改修と考えられているが、基本的な結構は武田氏時代のものを引き継いでいると見られる。静岡県内で武田の城といえば、丸子城とこの諏訪原城が双璧であろう。
外周の大空堀→DSC02748.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.818067/138.119677/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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ノリパ

ご説明されている記事を読んでいると行きたくなります。静岡の武田氏のツートップの一つなんですね。
by ノリパ (2013-06-09 13:10) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
いやー、ぜひ行ってください!
これだけ大規模な丸馬出は、感動モノです。
by アテンザ23Z (2013-06-09 18:38) 

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