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安倍城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01136.JPG←わずかに残る石垣
 安倍城は、南北朝時代に駿河南朝方の武将狩野介貞長が築いた山城である。貞長は駿河の在地豪族で、建武の新政の時、武者所結番を勤めて禁中警護のために都にいたが、1337年に後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝を樹立すると、貞長は本拠の駿河に戻り、南朝方として北朝方の足利一門の武将今川範国と対立した。狩野氏の本拠は内牧城であったが、より峻険な山城の安倍城を築き、更にその周辺に城砦群を築き、安倍城を中心として今川氏と戦闘を繰り広げた。後醍醐天皇の皇子宗良親王・興良親王が、一時、安倍城に入城したこともある。今川範国は、遠江南朝方の井伊氏を攻撃した後、1338年に安倍城に籠る南朝方を攻撃した。1350年には、安倍城を拠点とする狩野孫左衛門尉、石堂義房の家人佐竹兵庫亮、中山左衛門尉らの出撃に対し、今川範氏の援将伊達景宗(駿河伊達氏)が今川勢を率いて駿府周辺で戦い、翌年9月にも手越河原で激戦を展開し、更に同年11月に駿河府中を占拠する中賀野掃部助、入江駿河守らと戦い、これらを久能山城に撃退した。こうして南朝方勢力は徐々に今川氏に押し込まれ、14世紀末頃には狩野氏も今川氏に服属し、安倍城は廃城となったと推測される。

 安倍城は、標高435m、比高385mの峻険な山城である。築城技術の発達していなかった南北朝時代の城は、高所にある天険の要害に拠ったものが多いが、安倍城もそうした城の一つである。ネット上で見ると、西側の洞慶院から登っているのが一般的だが、私はより距離が短そうな東側の増善寺からの登山道を選択した。この道でも登頂比高380mを数え、安倍城から伸びる東尾根の鞍部の鉄塔を経由し、尾根筋の急坂を直登する大変きつい登り道であった。この道を登ると、途中標高370mの地点に平たい尾根があり、その先端付近に腰曲輪を備え、周辺を低土塁で防御した木戸口防衛の小さな砦が確認できた。安倍城の登城道の一つを防衛する出丸であろう。そこから更に尾根筋を登って行くと、数段の段曲輪群を経由してようやく本城に到達する。虎口手前にも小郭が置かれている。城の主要部は大きく4つの曲輪で構成され、これらの曲輪はいずれも比較的広く、兵の駐屯が可能な規模であるが削平は少々甘い。また曲輪間を分断する堀切も浅く、南北朝期の山城の特徴をよく残している。同じ様な特徴は下野長谷場城でも確認できるので、長谷場城もやっぱり南北朝期の城だなとあらためて実感した。石碑の建つ山頂の主郭からは絶景が望め、清水湊から駿河湾、遠く伊豆半島の南端まで眼下に収める。主郭から南に降る尾根には数段の腰曲輪が築かれており、小規模な石垣や虎口部には門跡の石も残っている。南北朝期の石垣としては備中福山城の例があるので、決して後世の戦国時代に改修を受けた遺構というわけではないだろう。南の峰には久住砦があるが、久住砦との間は高低差が大きく、別城一郭的な造りだった様だ。この尾根の途中に穿たれた堀切は、鞍部ではなく安部城寄りの鞍部から少々登った所に穿たれており、両城の分断を狙ったものではなく、安部本城への接近を阻む目的で構築されたものであることがわかる。安倍城は、遺構は比較的ささやかな一方、登るだけで小一時間掛かる山城なので、決して楽ではないが、歴史的に重要な城である。
ニノ郭の堀切→DSC01106.JPG
DSC01082.JPG←土塁のある東尾根の出丸

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【安倍本城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/35.006131/138.338726/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    【東尾根の出丸】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/35.006536/138.342332/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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