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手越河原古戦場(静岡県静岡市駿河区) [その他の史跡巡り]

DSC04846.JPG←古戦場の石碑
 手越河原古戦場は、南北朝時代の古戦場である。この地は安倍川と藁科川が自由に流れていた広い河原で、駿河府中の西を押さえる交通の要衝であった。その為、南北朝時代に度々合戦の場となった。中でも名高いのは、1335年に行われた合戦である。中先代の乱の後、鎌倉に腰を落ち着けて新政からの離反の態度を鮮明にした足利尊氏に対して、後醍醐天皇は新田義貞に足利討伐を命じた。大軍を率いて東下する義貞に対して、尊氏は高越後守師泰に矢作川での防衛を命じた。これは、三河国が足利氏の鎌倉時代からの領国で、しかも東国にある鎌倉府からの威令が強い範囲が三河国までであったためとされる。尊氏は師泰に、矢作川より西への進軍を禁じ、師泰は新田勢に苦戦を強いられて兵を退き、遠江鷺坂を経て、駿河まで後退した。ここで足利直義が新手の兵を率いて師泰軍に合流し、手越河原に防衛線を敷いた。義貞の大軍は手越河原に押し寄せ、ここでも両軍による激戦が展開された。太平記では両軍合わせて10万余と言われる。正午頃に始まった合戦は、両軍入り乱れて夜8時頃に至るまで17度にわたって激戦が展開され、決着せず両軍川を挟んで兵馬を休めた。深夜になって、義貞は屈強の射手を選んで夜討ちを懸けると、足利勢は周章狼狽して、麾下に参じていた佐々木道誉など多数の武家が新田方に降参し、足利勢は敗北を喫した。今川了俊の「難太平記」によれば、この時、足利方の部将細川定禅は直義に討死を勧め、淵辺伊賀守義博は「まず御前で討死つかまつろう」と言って、ただ一騎で新田勢の中に駆け入って討死した。また今川名児耶三郎入道も、この時に討死。一方、今川範国は直義に、「今は討死の時ではありません。一旦退いて、後日の合戦を期すべきです。」と言って、直義を退かせたと言う。退いた直義は、足利一門と箱根の水呑に要害を構えて、最後の合戦を挑もうと立て籠もった。この後、鎌倉で蟄居していた尊氏が、足利一門を救うために密かに挙兵し、竹之下の合戦へと繋がっていくのである。

 足利直義ら足利一門が浮沈を掛けて戦った手越河原は、現在では市街化の波に飲まれ、往時の姿はほとんど残っていない。JR安倍川駅の近くのみずほ公園内に古戦場の石碑が建っており、かつての激戦の名残をわずかに伝えているのみである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.938508/138.365840/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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