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寺尾城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC09265.JPG←土橋の架かる堀切
 寺尾城は、川中島城砦群の一つで、諏訪氏の庶流寺尾氏の居城である。寺尾氏は、戦国時代には村上氏に属していたが、清野氏と共に早くから武田信玄に通じた。1550年に武田信玄が砥石城を攻めて敗れた時には(砥石崩れ)、城主寺尾太郎左衛門は村上・高梨連合軍に寺尾城を攻撃された。真田幸隆は地蔵峠を越えて寺尾氏救援に駆けつけたが、時遅く寺尾城は落城していた。寺尾氏はその後、村上義清に従って越後へ逃れたが、後に武田氏に帰属した。1582年の武田氏滅亡後、寺尾太郎左衛門の子伝左衛門は、川中島を勢力下に収めた上杉景勝の家臣となり、荒砥城番、海津城在番を勤めたと言う。豊臣秀吉の命で越後上杉氏が会津に移封となると、寺尾氏もこの地を去り、寺尾城は廃城になったと考えられる。

 寺尾城は、尼巌城のある尼巌山の支峰の一つで、標高450m、比高100mの城山(愛宕山)に築かれている。海津城東方の外郭として機能したと考えられる。しかしその縄張りは、霞城竹山城など他の諸城と比べると古い形態を残している。山頂の主郭の南北の尾根筋に曲輪群を直線的に配置した連郭式で、要所を堀切で分断しているが、堀切の規模は小さい。城域南端は広い緩斜面となっているが、明確な曲輪としては整形されていない様である。その上に三ノ郭があって、周囲の切岸には部分的に小規模な石積みが残っている。小堀切を介してその上にニノ郭があり、ニノ郭は3段程の段曲輪に分かれている。この上に小堀切を介して主郭があり、周囲を土塁で囲み、手前中央部に虎口を残している。虎口は単純な坂虎口で、手前に馬出し的な小郭を構えているだけである。主郭背後の土塁はやや高く盛られ、ここにも部分的に小規模な石積みが残っている。主郭の北側にも曲輪が数段あって、合計3本の堀切が穿たれているが、各曲輪は削平がやや甘い。主郭北側の堀切は、南側と異なり、やや鋭く穿たれていて、中央部にはいずれも土橋を架けている。搦手への避難路確保を意識した構造となっている。いずれにしても、武田氏進出後には特に目立った再普請はされていない様である。尚、城址までは明確な道がなく、南麓の愛宕神社からは斜面直登となる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.575913/138.206881/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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