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大光寺城(青森県平川市) [古城めぐり(青森)]

DSC08440.JPG←新城南郭の堀跡
 大光寺城は、新城・古館・小館・五日市館から成る平城である。発掘調査の結果、11世紀に築城されたことが判明している。その後、鎌倉時代の1217年、平賀郡岩楯に平広忠が地頭代として入部して曾我氏を名乗り、後に大光寺曾我氏と岩楯曾我氏に分かれた。鎌倉幕府滅亡の際、津軽に逃れた北条一族の名越時如・安達高景は大光寺曾我氏と共に大光寺城に立て籠もったが、岩楯曾我氏らに攻め落とされ、逃れた持寄城も攻め落とされて大光寺曾我氏は滅亡した。その戦功により大光寺城を与えられた岩楯曾我貞光は、足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、足利方に付いた。一方、同じ頃、大光寺城五日市館には藤崎安東氏の一族葛西氏がいたが、永享年間(1429~41年)に三戸南部守行に逐われ、以後は南部氏の一族が城代となった。南部氏は奥州南朝方の柱石であったので、おそらく北朝方の岩楯曾我氏もこの頃に攻め滅ぼされたと推測される。戦国時代に大光寺城主であった南部信愛・左衛門父子の後、南部氏家臣の滝本播磨重行が城代となったが、1575年に大浦城主大浦(津軽)為信に攻め滅ぼされた。為信は、乳井大隅守建清を大光寺城主とし、1599年には津軽建広が城主となった。建広は、為信没後の後継者擁立で敗れて追放され、1610年に大光寺城は破却された。その用材は弘前城に転用された。

 大光寺城は、六羽川東岸の微高地に築かれた平城である。現在城址碑が建っている大光寺コミュニティセンター付近は新城に当たる。城内は全て宅地や畑に変貌し、主郭は空き地となっており、遺構はほとんど湮滅している。しかし周囲よりわずかな微高地となった地勢は残っており、南側には南郭の外堀跡が低い畑となって残っている。その他、西側には切岸跡と思われる段差も残っている。一方、古館は、新城の北西600m程の位置にあり、ここもわずかな微高地となっている。主郭跡と想われる場所には保食神社が鎮座し、周囲の郭内は一面の畑となっている。小館は、古館の北側にあり、幅20m程の堀跡を挟んで位置している。ここもわずかな微高地で一面の畑となっており、明確な遺構は見られない。このような感じで、街中の平城としては城址碑と堀跡が残るだけマシであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【新城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/40.589947/140.557398/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    【古館】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/40.594297/140.554351/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    【小館】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/40.596350/140.553578/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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