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九戸城(岩手県二戸市) [古城めぐり(岩手)]

DSC06747.JPG←本丸追手虎口の枡形と筋違木橋
 九戸城は、福岡城とも呼ばれ、南部氏の庶流九戸氏の居城である。そして奥州戦国最後の戦いである九戸政実の乱の舞台ともなった城である。明応年間(1492~1501年)に九戸光政が築いたと考えられている。戦国時代の九戸氏は、宗家である三戸南部氏に匹敵する勢力を有していたらしく、1580年に三戸城主南部晴政が死去すると、その継嗣擁立をめぐって南部信直と対立した。この時は、九戸政実の推す晴継が僅か13歳で謎の死を遂げ、抗争は表面上収まったが、南部宗家に対する叛意は続いていた。1590年に豊臣秀吉は小田原の役で北条氏を滅ぼし、引き続いて奥州仕置を行って、小田原の役に不参した葛西・大崎・和賀らの諸豪を改易すると、各氏の遺臣団が反乱を起こすなど情勢が不穏となり、政実はこの動乱に乗じて翌91年3月に南部氏に対して挙兵した。緒戦は九戸方が優勢であったが、8月に入って秀吉の派遣した蒲生氏郷を主将とする奥州仕置軍が九戸氏討伐の為に参着すると、9月2日、政実は九戸城に城兵5000余と共に籠城した。対する上方勢は、3万とも6万とも言われる大軍であった。上方勢は謀略を巡らせ、九戸氏の菩提寺長興寺の和尚を使者として城兵の助命を条件に政実を説得し降伏させた。しかし開城後、上方勢は助命の約束を反故にして城内を撫切りにし、政実と7人の重臣は総大将豊臣秀次の待つ三ノ迫(宮城県)で斬首された。この九戸政実の乱鎮定後、九戸城は蒲生氏郷らの指揮の元、近世城郭に改修された。和賀・稗貫・志和の3郡を加封された南部信直は、居城を三戸城から九戸城に移し、名も福岡城と改めた。その後、盛岡城が完成して居城を移すと、九戸城は廃城となった。

 九戸城は、馬渕川とその支流白鳥川の合流点にそびえる段丘上に築かれた崖端城で、現在は国指定史跡として整備されている。近世城郭として改修された城らしく石垣が多い城で、各曲輪は広く、広大な城域を有している。本丸・二ノ丸を主城部とするが、その周囲に外郭として石沢館(外館)・若狭館・松ノ丸を有し、段丘の下には三ノ丸があって、それぞれの曲輪は広い空堀で分断されている。これらの空堀はいずれも鉄砲戦に備えた広さを有している。本丸には2つの虎口があって、いずれも枡形を備えた造りとなっているが、特に追手虎口は斜めに掛かった筋違い木橋となっている。筋違い木橋は讃岐高松城でしか見たことがなく、現存する類例の少ない形状である。本丸は仕切り土塁で区画され、他の各曲輪内も数段の平場に分かれている。外郭部の曲輪では、南部氏居城時代に主殿が置かれたとされる松ノ丸だけ南西部に枡形門と土橋跡があるが、それ以外には石垣も枡形虎口もないので、ほぼ中世の姿を留めていると考えられる。また石沢館東側には腰曲輪が見られるなど、遺構はほぼ完存に近い。このまま末永く遺構を大事に保存してもらいたい。
二ノ丸~石沢館間の広い空堀→DSC06792.JPG
DSC06803.JPG←石沢館の腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=40.267673,141.303449&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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