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聖寿寺館(青森県南部町) [古城めぐり(青森)]

DSC06331.JPG←北側の堀跡
 聖寿寺館は、奥州の名族南部氏本宗家の室町時代から戦国時代にかけての本拠地である。南部氏は、甲斐源氏新羅三郎義光の流れを汲む南部三郎光行を祖とする。1189年、光行は源頼朝の奥州合戦に従軍し、戦功によって糠部郡を賜り、1191年暮れに鎌倉よりこの地に入部したと言われている。翌92年に平良ヶ崎城が築城されて政庁機能を果たし、聖寿寺館はそれに対する居館であったと考えられている。南北朝時代には、義良親王を奉じて陸奥守鎮守府大将軍となって奥州多賀城(後に霊山城に移動)に下向した北畠顕家の下で、南部師行は伊達氏と並ぶ奥州南朝方の柱石として活躍した。室町時代になると、強勢だった八戸南部氏に対して、嫡流の三戸南部氏の宗家としての立場が確立し、13代守行は室町将軍直属の京都御扶持衆となって、伊達氏・葛西氏と並ぶ奥州屈指の格式を誇った。戦国時代に入ると23代安信・24代晴政の下で、聖寿寺館を拠点として戦国大名化へと脱皮した。しかし1539年、家中の争いが元で、家臣の赤沼備中が聖寿寺館に放火して消失した。以後は三戸城が居城となり、聖寿寺館は廃されたと考えられる。

 聖寿寺館は、馬淵川の支流猿辺川北岸の段丘上に築かれた居館である。現在国の指定史跡となっているが、館内は民有地の畑や宅地の為、整備はまだ進んでいない。それでも畑となった広い平坦地の北側には堀跡が明確に残っている。また東側の切通し状の車道も堀跡である。内部は私有地の畑であまり確認できないが、畑の入口付近から見たところ、どうも2段の平場に分かれていた様である。大手虎口は南にあったらしく、虎口周囲には腰曲輪があって、左袖を掛けて防御していた様である。350年間も存続した居館であるが、遺構は割とささやかなものである。尚、周囲には南部氏の廟所が残っている他、平良ヶ崎城・馬場館・大向館・佐藤館などがあって、中世の一大拠点であったことを物語っている。
南虎口→DSC06349.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.413275/141.277345/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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