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有子山城(兵庫県豊岡市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC04852.JPG←第3曲輪の石垣
 有子山城は、但馬守護山名氏の最後の居城である。1569年、織田信長の部将羽柴秀吉は総勢2万余の大軍で但馬攻めを行い、2週間程の間に18城を落とした。この時、山名氏の守護所であった此隅山城も落城した。この後、1574年に山名祐豊は残存勢力を結集し、新たに築いたのが有子山城である。しかし既に山名氏は昔日の勢威を失い、周辺諸勢力の間で余命を保つしかない状態であった。その後間もなくの1577年と1580年と、二度にわたる信長の但馬征伐が行われた。二度目の征伐の際、秀吉の実弟羽柴秀長が有子山城を攻め落とし、山名氏政は因幡に逃れ、南北朝期以来守護大名として山陰に君臨してきた山名氏は滅亡した。従って、山名氏が有子山城を居城としたのは僅か6年ということになる。その後有子山城は秀吉の持ち城となり、1585年には秀吉古参家臣の前野長康が城主となった。長康は、秀吉が美濃墨俣築城などで手柄を立てた頃からの最古参の重臣であったが、子の長重が関白豊臣秀次の近臣であったことから、秀次の処刑に連座して、長重共々斬首となった。その後1595年に播磨龍野城から小出吉政が有子山城に移封となり、以後、小出氏の居城となった。関ヶ原合戦後の1604年、小出吉英が山麓に新たに出石城を築いて居城を移し、有子山城は廃城となった。

 有子山城は、戦国末期の城であり、しかも近世城郭への過渡期にも存在していたため、規模の大きな雄大な山城である。比高302mの峻険な山上に築かれており、総石垣の本丸の他、本丸手前に連なる曲輪群に多数の石垣を連ねている。本丸の背後には千畳敷と呼ばれる広大で平坦な楕円形の曲輪があるが、その間は深さ10mを超える大堀切で分断され、一城別郭の縄張りとなっている。千畳敷は前野長康の隠居所でもあったものだろうか?千畳敷の曲輪内部には、石列遺構も確認できる。またこの城は、中世から近世への過渡期に存在したため、中世山城の側面も色濃く残した縄張りであり、千畳敷背後の腰曲輪の先や、本丸の西方に派生する尾根筋の段曲輪群の先には深さ4~5m程の堀切が穿たれ、規模が大きく見応えがある。段曲輪も比較的規模が大きい。但し、虎口構造は割りと平易である。大手筋に当たると考えられる出石城から登る北西尾根筋の段曲輪とその中の堀切・竪堀は規模が小さく、山名氏時代の遺構をそのまま残していると考えられ、石垣以外は中世山城の縄張りとも考えられる。中世の縄張りに壮大な石垣が築かれた姿が印象的で、竹田城などとはまた違った意味で深く心に残った城である。
大手筋の小規模な堀切・土橋→DSC04775.JPG
DSC04946.JPG←本丸の石垣
千畳敷との間の大堀切→DSC04878.JPG
DSC04991.JPG←西尾根の段曲輪
段曲輪の先の堀切→DSC04985.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.455392/134.878024/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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Len

 はじめまして。私も城好きで休日に巡っております。有子山城は、何かはかないですね。
by Len (2012-04-22 08:51) 

アテンザ23Z

>Lenさん
コメント、ご訪問、ありがとうございます。
そうなんです!
何かはかなさが漂ってます、この城は。
本当に不思議な雰囲気です。
今後ともよろしくお願いします。
by アテンザ23Z (2012-04-22 20:22) 

ノリパ

また出ました、☆5つ! いつか行く城メモのなかに書いておきます。
by ノリパ (2012-04-28 08:40) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
この城は、Lenさんがコメントの中でおっしゃっている通り、
何とはない「はかなさ」のようなものが漂っている不思議な城で、
強い印象が残っています。

ただ、登るのはかなり大変です。
ヤセ尾根直登で、全く逃げ場のない城なので・・・。
by アテンザ23Z (2012-04-28 22:18) 

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