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三石城(岡山県備前市) [古城めぐり(岡山)]

DSC03904.JPG←大手門の石垣
 三石城は、太平記にも出てくる古くからある山城である。1333年に地頭の伊東大和次郎が、後醍醐天皇の倒幕戦に呼応して、三石城を築いて挙兵したと言われている。その後、建武の新政から離反した足利尊氏が京都争奪戦に敗れ、九州に落ち延びた際、尊氏は赤松円心の勢力圏の播磨室ノ津で軍議を行い、九州から再挙東上するまでの武家方の備えを固めた。備前には足利一族の石橋和義を大将に、守護の松田盛朝ら国人衆を組織して、攻め寄せる新田義貞の軍に抵抗した。円心の拠る白旗城やこの三石城で足利方の頑強な抵抗に合って、義貞軍は釘付けとなって貴重な時日を浪費し、その間に態勢を立て直した尊氏は、大軍を率いて京都目指して進軍を始め、後に北朝を擁立した。つまり三石城は、白旗城や感状山城と並んで南北朝動乱の画期となった重要な城であった。その後、尊氏を助けて大功のあった赤松氏が備前の守護職をも兼帯すると、その重臣の浦上宗隆が守護代となって三石城に入り、歴代の居城とした。主家の赤松氏は嘉吉の乱で没落したが、遺臣団の再興運動が実を結んで、赤松氏は再興された。この時、再興に功のあった浦上氏は増長して主家赤松氏と不和となり、1521年、浦上村宗が主君赤松義村を播磨室ノ津で弑逆するなど下克上の趨勢となった。村宗が1531年の三好長基と細川高国の合戦で細川方に付いて討死すると、遺領はその子政宗・宗景によって二分され、宗景は天神山城に居城を移し、三石城は廃城となった。

 三石城は、標高297m、比高207mの城山に築かれた山城で、守護代の居城とは言うものの、戦国期前半で役目を終えたせいか、平易な縄張りでコンパクトにまとまった比較的小規模な城となっている。主郭の南西にニノ郭・三ノ郭を連ね、その西側下方には大手虎口を備えている。主郭は三段ほどの平場に分かれており、郭内に石が多数転がっているので、もしかしたら主殿には石垣が築かれていたかも知れない。三ノ郭は、不整形な細長い曲輪で内部の削平も甘く、全体が傾斜している。三石城は石垣の少ない城であるが、大手門には石垣がしっかりと積まれており素晴らしい。大手門以外は割と平易な虎口となっている。主郭背後には腰曲輪と大堀切を挟んで鶯丸という出丸がある。鶯丸には腰曲輪が付随しており、腰曲輪には土塁も備わっている。大堀切は、幅は狭いが深く、鉄砲のない時代には防御性を発揮したことが想像される。井戸跡は多数あり、水便はよかった様だ。城としての規模は大したものではないが、太平記や赤松氏の歴史に深く関与している城で、歴史的に重要である。
大堀切→DSC03880.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.807525/134.270806/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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