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感状山城(兵庫県相生市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC03657.JPG←ニノ郭群前面の石垣
 感状山城は、瓜生城とも呼ばれ、鎌倉時代の当地の豪族瓜生左衛門尉が築いたとも、南北朝時代の1336年に赤松円心の3男赤松則祐が築いたとも言われている山城である。この城がはっきり歴史に残っているのは、南北朝動乱の時のことである。後醍醐天皇が始めた建武の新政は失政が相次ぎ、1335年に発生した中先代の乱を契機として足利尊氏は後醍醐より離反した。その後、後醍醐による新田義貞の足利討伐への派遣、竹之下でこれを破った後の尊氏の西上戦と続き、一旦は京都に攻め込んだ尊氏であったが、奥州から馳せ参じた北畠顕家の攻撃もあって敗退し、九州に落ち延びることとなった。その時、赤松円心の勢力圏の播磨室ノ津で軍議を行い、九州から再挙東上するまでの武家方の備えを固めた。播磨の守りは円心に任せられた。円心は白旗城を拠点に、攻め寄せた新田義貞の大軍を播磨に釘付けにし、義貞に貴重な時日を浪費させることに成功し、その間に態勢を立て直した尊氏は、大軍を率いて京都目指して進軍を始めた。赤松則祐も父円心と同様、感状山城に籠って奮戦し、尊氏再起の立役者の1人となった。この功績により、尊氏が則祐に感状(戦功を賞する書状)を与えたことから、感状山と呼ばれるようになったと言う。その後の感状山城の歴史は定かではないが、現在残る遺構は明らかに戦国時代のもので、宇喜多氏が改修したとも言われている。

 感状山城は、多数の石垣の残る、往時は総石垣だった城で、現在でもその遺構が良く残っている。標高305m、比高225mの山上に築かれているが、城域は広大で拠点城郭として重要視されたであろうことがその遺構からわかる。龍野古城などと同じく、赤松流一城別郭の縄張りで、最上部に主郭・ニノ郭、それに連なる南北の段曲輪群があり、その主城部の西側下方の平坦地には、三ノ郭群や出曲輪が連なり、いずれも崩落が進んでいるものの随所に石垣の跡が良く残っている。三ノ郭群の南東部下方には大手門が、また北西下方には搦手門が残り、どちらも櫓門の石垣がかなり崩落しているものの残っていて、往時の姿を彷彿とさせる。また石組み井戸も2ヶ所残る。その他、主郭には排水石列がはっきりと残り、排水口の石も形が明瞭である。各曲輪への動線は屈曲しており、枡形は中世城郭の完成形で、戦国末期の築城技術を堪能できる、素晴らしい山城である。城内は整備され、羅漢の里からの登山道も整備されており、さすがに国指定史跡ともなると、金の掛け方が違うことを実感した。

 ちなみに感状山城では、ハイキング中の団体さん一行や二人で観光に来た背広姿のおっちゃんと出くわした。そこで耳にした摩訶不思議な会話。ハイキングの一行は、ここに城跡があるのを知らなかったらしく、標柱などを見て城跡だとわかったらしい。この一行の白髭のリーダーが、2人のおっちゃんの1人にこう訊いた。「天守閣はどこにあるんですか?」「あっちですよ、あっち」。はぁ?天守閣?しかも何もないのに「あっち」って・・・。う~ん、すごいブッ飛んだ会話だ。感状山城は中世城郭なので、当然天守閣はありませんので・・・。
ニノ郭横の石垣→DSC03694.JPG
DSC03613.JPG←大手門に残る櫓門石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.881354/134.451317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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