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置塩城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC03042.JPG←南西曲輪群の大石垣
 置塩城は、1469年に播磨守護赤松政則が築いた大規模な山城である。赤松氏は、初代円心則村が足利尊氏に従って大功を挙げ、3代将軍足利義満が定めた武家の典礼では三管四職に名を連ねた名門の強豪守護であった。しかし6代将軍足利義教の時に、赤松満祐が将軍を暗殺するという前代未聞の嘉吉の乱を起こし、幕府軍の討伐を受けて没落した。その後、赤松遺臣が主家再興運動を起こし、後南朝から神璽を奪還した功績を認められて、1458年に赤松政則が加賀半国の守護となって、守護大名赤松氏が再興された。その後、応仁の大乱の時に、東軍の細川勝元に与して山名氏に奪われていた本拠の播磨を奪還し、播磨守護に返り咲いた。播磨に戻った政則は、新たに置塩城を築いて居城とした。しかし再興後の赤松氏には往時の勢威はなく、山名氏との播磨を巡る抗争の他、守護代として台頭した三石城主浦上氏の下克上等で播磨一国を支配する力は既に失われていた。戦国時代後半に織田信長が勢力を伸長すると赤松則房は信長に従い、信長の部将羽柴秀吉が1577年に播磨平定に乗り出すと、その与力となった。信長の死後、秀吉が天下の権を握ると、則房は阿波住吉に移封されて置塩城を去り、1581年の姫路城築城の際に用材を転用され、置塩城は廃城となった。

 置塩城は、標高370m、比高310mの峻険な城山に築かれた城で、衰えたりとは言え守護大名赤松氏の拠った堂々たる山城である。城域は広大で、城内には本丸・二ノ丸・三ノ丸等の主要な曲輪の他に、多数の段曲輪群・腰曲輪群を連ね、崩落した石積みが多数残っている。この城の縄張りで特徴的なのは、本丸が完全に独立した一城別郭構造で、本丸とは言うものの実質的に有事の際の詰丸と考えられ、平時には二ノ丸が実質的な本丸として機能したのではないかと推測される。二ノ丸~本丸間の鞍部は馬場状の曲輪となっていて、本丸にはここから更に30m程の高さを登らなくてはならない。また主要な曲輪間は堀切で分断しているが、堀切はそれほど大きな規模ではなく、いずれの堀切も城内通路を兼ねている。全体に虎口は割と平易な構造で、大手門は西尾根の段曲輪群のかなり下方に築かれており、現在は深い薮に埋もれている。国指定史跡となっているだけあって、城内は整備されており、全体に薮が少なく遺構の確認がしやすい。ただ、現在整備されている登城道から西曲輪群に繋がる道は一部崩落しており、注意が必要である。とにかく再興赤松氏の城の広さには目を見張るばかりで、守護大名の勢威の強さとはこれほどのものであったのかと思い知らされる。
二ノ丸北側の堀切→DSC03077.JPG
DSC03017.JPG←茶室曲輪の石積み虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.923352/134.683156/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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