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横田中丸城(福島県金山町) [古城めぐり(福島)]

DSC02560.JPG←主郭背後の二重堀切
 横田中丸城は、会津四家の一、山ノ内氏の歴代の居城である。山ノ内氏の祖、山ノ内首藤経俊は、源頼朝の乳兄弟でありながらその挙兵時に平氏方の大庭景親に従って、頼朝に向けて矢を放った為、頼朝が関東を平定すると捕らえられて斬首されかけた。頼朝の乳母に当たる俊経の母が涙ながらに助命嘆願したため、頼朝は一命を助け、その後経俊は、奥州合戦で功を挙げて会津の金山谷、伊北郷等を与えられた。山ノ内氏が実際にこの地に入部したのは、1403年頃の10代通俊と言われている。通俊は、要害山に中丸城を築いて本拠地とした。山ノ内氏は中丸城を中心に、周辺に一族・重臣を分封して、七騎党城・六固城・51の持柵を築いたと言う。戦国末期の1589年、摺上原の戦いで会津の戦国大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗は、奥会津にその勢威を伸ばした。しかし時の当主山ノ内氏勝は政宗に従わず頑強に抵抗した為、正宗は降った布沢氏らを先鋒として横田中丸城を攻撃した。氏勝は、横田中丸城を捨ててより峻険な水久保城に籠城し、越後の上杉景勝や久川城主河原田盛次の支援を受けて徹底抗戦した。しかし間もなく豊臣秀吉の小田原の役となり、秀吉は奥州諸侯に参陣を求め、その後の奥州仕置で不参の奥州諸侯を悉く改易した。小田原に出向かなかった山ノ内氏もこの時没落した。

 横田中丸城は、只見川南岸にそびえる標高546.7m、比高217mの要害山上に築かれている。登り口が整備されており、山腹の三ノ丸・二ノ丸の平場、ついで大手桝形虎口を抜けて、主城部に達する。三ノ丸は平場と言うもののかなりの傾斜地で、二ノ丸は薮で覆われており、遺構全体の確認は困難である。主城部は、主郭前面に多数の帯曲輪を配置し、主郭背後は二重堀切で尾根筋を分断しており、信濃真田ノ庄の根小屋城によく似た縄張りである。主郭は小さく、あくまで有事の際の詰城の位置付けだったものだろう。主郭前面の帯曲輪群の最下段は横堀となっており、最前面の守りを固めている。帯曲輪群は主郭の北西面に集中しているが、北東側に張り出した曲輪群もあり、主郭の東にも段曲輪が1段構築されている。西の腰曲輪には畝の様なものがあり、真ん中が凹んでいる。貯水池として利用したものだろうか?その他では、大手の虎口構造が明瞭だったり、主郭背後の堀切には石積みの跡も見られるなど、なかなか面白い。登り道はしっかりしているが、途中からほとんど直登の道になるので、ちょっと疲れる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.389118/139.451619/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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