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水久保城(福島県只見町) [古城めぐり(福島)]

DSC02334.JPG←虎口を兼ねた主郭堀切
 水久保城は、横田中丸城主山ノ内氏の支城である。その創築は、鎌倉時代初頭の1213年に横田氏によるものと言われている。戦国時代になると、会津四家の一、山ノ内氏の持ち城となった。1589年、摺上原の戦いで会津の戦国大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗は、奥会津にその勢威を伸ばした。しかし山ノ内氏勝は政宗に従わず頑強に抵抗した為、正宗は降った布沢氏らを先鋒として横田中丸城を攻撃した。氏勝は、横田中丸城を捨ててより峻険な水久保城に籠城し、越後の上杉景勝や久川城主河原田盛次の支援を受けて徹底抗戦した。しかし間もなく豊臣秀吉の小田原の役となり、秀吉は奥州諸侯に参陣を求め、その後の奥州仕置で不参の奥州諸侯を悉く改易した。小田原に出向かなかった山ノ内氏もこの時没落した。

 水久保城は、只見町中心部の西方にそびえる標高705m、比高325mの峻険な要害山上に築かれている。南東麓の滝神社奥から登山道が延びているが、急峻な尾根上を直登する道で、傾斜が急で中々辛い。苦労して登ると、山上の平場には小さな城址標柱が建ち、城内にはTV中継局がいくつか建てられていて、その保守用道路などの建設で一部破壊を受けているものの、遺構は明瞭に残っている。最上部の主郭部は、堀切と土橋で南北2つに分割されており主郭と副郭であろう。この堀切は虎口を兼ねている様で、その下は腰曲輪や北曲輪に繋がっている。西側の腰曲輪の南側には仕切り土塁と虎口が設けられている。北曲輪の北側には更に段曲輪が1段あり、脇から竪堀を落としている。また主郭南側にも堀切を介して南曲輪が広がり、その南側には虎口らしき地形が残っている。堀切はいずれも浅く、縄張りにも戦国末期という高度さは見られず、基本的には山の峻険さを武器とした城だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.356513/139.308668/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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