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備中高松城(岡山県岡山市) [古城めぐり(岡山)]

DSC08149.JPG←本丸~二ノ丸間の水堀
 備中高松城は、織田信長の部将羽柴秀吉によって史上有名な水攻めが行われた城である。高松城は、戦国後期の天正年間(1573~92年)以前に、備中松山城主三村氏の部将石川氏によって築かれた。天正の頃、高松城主石川久孝は備中半国の旗頭となったほどの有力武将であった。しかし嗣子無く他界し、石川家の断絶を迎えて石川氏麾下の清水宗治は、石川氏の娘婿となって、自ら高松城主となった。この時、長谷川氏も高松城主を望んだが城中で宗治に誅殺された。この頃西の毛利氏が強勢を以って東に進出し、宗治も諸将を率いて毛利氏に下って小早川隆景の麾下に属した。一方、中央では天下布武の野望に燃える織田信長が天下統一を目指して四方の戦国大名を攻め滅ぼしており、その矛先は西の毛利氏に対しても向かっていた。1582年、織田勢の中国方面軍指揮官であった羽柴秀吉は、備中の毛利方の境目7城(宮地山城・冠山城・高松城・鴨城・日幡城・松島城・庭瀬城)の攻略に取り掛かった。7城の中心であった高松城は、周囲を広大な沼地に囲まれた沼城で、宗治が籠城策を取ると攻め口がなくなり、秀吉は黒田官兵衛孝高の建策を容れて、総延長3kmに及ぶ長大な堤防を築き、水攻めを敢行した。その戦いの経緯は、高松城水攻築堤跡の項に記載する。信長が本能寺で横死し、羽柴・毛利間で和議が結ばれると、城主清水宗治は自刃し、高松城は開城された。その後、秀吉の城番として杉原七郎左衛門尉が高松城に入った。この後、宇喜多秀家の部将花房正成が高松城主となり、城は大改修されたと言う。1600年の関ヶ原合戦で宇喜多氏が改易になると、宇喜多氏から追放されていた花房職之が徳川氏の旗本となって高松の地を与えられた。後に高松城は廃城となった。

 備中高松城は、かつては広大な沼地の真ん中に本丸・二ノ丸・三ノ丸の各曲輪が浮島のように浮かび、その外周を家中屋敷と呼ばれる外郭が囲んでいた。しかし現在は周囲の沼地は完全に耕地化され、各曲輪も一部を残して宅地に変貌しており、遺構の湮滅が進んでいる。辛うじて本丸・二ノ丸・三ノ丸の西半分が城址公園として整備され、本丸には曲輪の形状と周囲の水堀が残存している。本丸は周囲より微高地となったただの平場で、土塁などは残っていない。今の状況から考えると、大軍に包囲されての籠城戦に耐えられる要害とはとても思えないが、それは遺構が大きく改変されてしまったからであろう。これも平地の城の宿命で仕方がない事かも知れない。尚、関東平野には岩槻城騎西城忍城羽生城など沼城の名城が多いが、平地の少ない中国地方では高松城の様な沼城は少ないだろう(これは個人的な推測)。秀吉はおそらくあまり沼城を攻めた経験がないと思われ、秀吉が苦戦した理由の一つかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E133.49.28.6N34.41.23.2&ZM=9
タグ:中世水城
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