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上月城(兵庫県佐用町) [古城めぐり(兵庫)]

DSC07099.JPG←背後の尾根筋の堀切
 上月城は、尼子氏再興が潰え、尼子氏滅亡の城として知られている。元々は、鎌倉時代末期に上月次郎景盛が大平山に初めて城を築いたと言われている。その後本城を、谷を隔てた南の荒神山に移したと考えられ、これが現在言われる上月城となった。室町時代の播磨は、当初赤松氏が守護として支配したが、嘉吉の乱で赤松氏が滅びると山名氏がこれに取って代わり、後、赤松氏が再興して再び播磨に入るなど情勢が流動的で、上月城主も変遷を経たようである。更に戦国時代に入ると、1538年、月山富田城主尼子晴久が播磨にも進出し、上月城を支配した。しかし毛利元就が尼子氏を降すと、今度は毛利氏が播磨に進出し、上月城主赤松政範は毛利方に付いた。1577年、織田信長の命により播磨に侵攻した羽柴秀吉は、福原城を攻略し、1万5千の軍で上月城を包囲した。そして救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を秀吉が退けると、上月城は落城し、政範は自刃した。この時秀吉は、残った城兵を悉く斬首にし、女子供までも串刺し・磔としたと言われる。秀吉は、上月城に尼子氏再興を目指す尼子勝久・山中鹿介幸盛に守らせたが、宇喜多勢に責められて一時撤退し、再び秀吉が奪還して、再度尼子勝久・山中鹿介幸盛が上月城に入った。尼子勢は、利神城を攻め落とすなど、織田方で勢力を伸ばしつつあったが、1578年、毛利氏は3万の大軍で上月城を囲んだ。秀吉は信長の命により援軍を引き揚げた為、上月城は孤立し、勝久は城兵の助命を条件に毛利氏に開城降服し、自らは自刃してここに尼子氏は滅亡した。鹿介は毛利方に捕らえられ、備中に誤送の途中、高梁川の阿井の渡しで斬殺された。その後、上月城は廃城となった。

 上月城は、山中鹿介幸盛が奮戦した歴史上の有名さに比すると、非常にささやかな城である。比高はわずか100m程で石垣はなく、主郭・ニノ郭には土塁も築かれていない。勿論天守台もなく、播磨の名だたる大城郭に比べれば古色蒼然とした土の城である。主郭周囲には腰曲輪が数段築かれて守りを固め、主郭前面に1本とニノ郭裏の尾根筋に2本の堀切があるが、いずれもかなり規模は小さい。攻防の的となった城とは言っても、各勢力の接壌地帯に築かれた出城という位置付けで、支配拠点という意味の城ではなかったと思われる。しかも山陰屈指の大名尼子氏の最後の地としてはあまりに地味で、やはり没落する勢力には協力者が少なかったのかと感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.975439/134.323912/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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