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月山富田城(島根県安来市) [古城めぐり(島根)]

DSC05065.JPG←三ノ丸の石垣
 月山富田城は、西国の戦国大名尼子氏の居城である。尼子氏は、南北朝の動乱を独自の才覚で駆け抜けた梟雄佐々木道誉に始まる京極家の庶流で、道誉の孫の高久が近江尼子郷に住んで尼子氏を称したのに始まる。その子持久が1392年に出雲守護を兼帯する京極高詮に守護代を命じられて出雲に下り、月山富田城を居城とした。以後、富田城は尼子氏歴代の居城となった。持久の子清定の時に応仁文明の大乱が生起し、出雲守護でもあった京極氏は京での戦闘に明け暮れた為、出雲の守護権力は空白となり、守護代の尼子氏が実質的に出雲の守護権力を掌握した。清定の子経久の代に、尼子氏は戦国大名化して最盛期を迎え、東は因幡・播磨から西は石見・備後まで11ヶ国を領有した。しかし経久の嫡子政久は戦場で討死し、3男興久は叛を謀って誅殺され、尼子氏には早くも衰退の影が忍び寄っていた。経久は孫の晴久に家督を譲ったが、晴久は大内義隆の権威を背景とした安芸の毛利元就を討伐するため、1540年に元就の居城郡山城を攻めたが敗北し、返って大内義隆に富田城を攻められた。しかし尼子方はこれを撃退し、大内氏は敗北した(第1次月山富田城の戦い)。晴久の跡を継いだ義久の時、西国の覇者に登り詰めつつあった毛利元就の3万5千の大軍に富田城を囲まれ、1年半の籠城戦の末、1566年に降伏開城した(第2次月山富田城の戦い)。1569年に尼子氏遺臣の山中鹿介幸盛は尼子勝久を奉じて富田城奪還を試みたが敗れ、上月城で尼子氏は滅亡した。尼子氏が去った後の富田城は毛利氏の持ち城となり、天野隆重・毛利元秋・元康・吉川広家らが相次いで城代として配されたが、関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は富田城を追われ、堀尾吉晴が代わって富田城に入部した。1611年、堀尾氏は新たに松江城を築いて居城を移し、以後富田城は廃城となった。

 月山富田城は、一部で中世5代山城の一つと謳われるだけあって、広大な山城である。比高154mの月山山上に連郭式の詰城を置き、本丸・二ノ丸・三ノ丸を配している。詰城といえどもそれぞれの曲輪は規模は大きく、二ノ丸・三ノ丸の周囲は石垣で囲まれ、本丸との間を大きな掘切で分断している。本丸の背後にも段曲輪と堀切が確認できる。詰城から急峻な七曲りを下った山麓部には、山中御殿平と呼ばれる城主居館のあった広大な曲輪を中心に、多数の曲輪群が配置されている。やはり各曲輪とも規模が大きく、殊に山中御殿は周囲に多数の石垣と虎口を配している。塩谷口の搦手虎口には、垂直石垣の切通し状の狭い虎口が造られており、有事の際には石を落として塞ぐことを想定していたのだろう。七曲りの山道の途中にも段曲輪や腰曲輪が見られ、千畳敷から山中御殿までの間にも多数の段曲輪や腰曲輪がある。本丸の東尾根や城安寺背後の尾根にもまだ多数の曲輪群があるようだが、時間の制約上とてもではないがそこまでは見きれなかった。整備された主要部だけでも見応えがあり、城の周辺にも多くの史跡があり、山陰では必見の城である。
本丸手前の堀切→DSC05113.JPG
DSC05015.JPG←山中御殿塩谷口の虎口
元就が本陣を置いた京羅木山→DSC05083.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E133.11.12.6N35.21.29.4&ZM=9
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evergreen

西日本の山城は石垣が多く、迫力がある印象がありますね。
東日本ですと、
先日のエントリーの八王子城と金山城くらいなのでしょうか。

話はそれますが、以前館林に住んでおりまして、
金山城を訪れたおりは、関東にもこんな城があるのかと、驚いたものです。
もう少しメジャーになっても良い城だと思いました。
by evergreen (2011-09-28 15:53) 

アテンザ23Z

>evergreenさん
そうですね~。
武蔵小倉城なんかもなかなかの石垣が残っていますが、
平たい石を積んだ牛蒡積みですので、
いわゆる石垣のイメージとはちょっと異なります。

中世城郭ではそんなものでしょうか、
東日本で石垣と呼べるのは。
石積みレベルでしたら結構残っていたりするのですが。
by アテンザ23Z (2011-09-28 17:59) 

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