So-net無料ブログ作成

玉縄城(神奈川県鎌倉市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC03561.JPG←城中最大の堀切
 玉縄城は、小田原北条氏の玉縄衆の本城である。築城は1512年、北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)によってである。謀略により大森藤頼から小田原城を奪取して、相模に重要な橋頭堡を築いた宗瑞は、関八州制覇を目指して、まずは東相模の強豪三浦氏を攻めて相模平定に取り掛かった。三浦氏の当主道寸(義同)は、岡崎城を本城としていたが、宗瑞の猛攻によりこれを逐われ、三浦半島の入口に当たる住吉城に籠ったがこれも落とされ、かつての本城新井城に追い詰められた。しかし天険の要害新井城の守りは堅く、宗瑞は力攻めをせず、長期攻囲戦を行った。この時、武蔵には道寸の主君扇谷上杉朝興があって、宗瑞は朝興から道寸への援軍を断つ為に、三浦半島の基部で交通の要地であった地の要害に、新城を築いた。これが玉縄城である。玉縄城の築城によって、扇谷勢との連携を断つことに成功した宗瑞は、1516年、遂に新井城を攻略して三浦氏を滅ぼし、相模を平定した。当初の目的を達した玉縄城であったが、これ以後、玉縄城は北条氏にとって東相模最大の軍事拠点となった。

 玉縄城の初代城主は、宗瑞の次男北条氏時で、1526年に安房の里見実堯が鎌倉に乱入した際には、氏時は玉縄城を背にして軍を戸部川まで進出させて防戦した。この戦闘での戦死者を葬ったのが、玉縄首塚である。氏時没後は、猛将北条左衛門太夫綱成が玉縄城主となった。1561年に越山して初めて関東にその地歩を記した上杉謙信は、小田原城攻囲の後、鶴岡八幡宮で関東管領に正式に就任したが、その際玉縄城を囲んだ。城主綱成は不在であったが、その長子氏繁が防戦して守りが堅く、謙信は囲みを解いて越後へ引き上げた。1569年、甲斐の武田信玄は小田原に侵攻したが、その途上、堅城の玉縄城は攻めることなく素通りして、その支砦御幣山砦を落として小田原城に向かった。1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の際には、時の玉縄城主北条氏勝(綱成の孫)は山中城の守将松田康長ら4千の兵と共に山中城の護りに就いたが、豊臣秀次を総大将とする総勢7万もの大軍の猛攻に遭い、山中城はわずか半日で落城。氏勝は、康長に送り出されて辛うじて玉縄城に逃れた。氏勝は、山中城落城の恥辱に耐えず、小田原城に赴くことなく、そのまま玉縄城に籠城した。徳川家康は、氏勝を見方にすることが北条氏を滅ぼすために有利と考え、秀吉の許可を得て氏勝を説得し、遂に玉縄城を開城させた。

 北条氏の滅亡後、関東に入部した家康は、重臣の本多正信を玉縄城に配したが、その後水野忠守を城主とした。江戸時代初期の1625年には、松平(大河内)正綱が2万2千石で入封して玉縄藩を立藩したが、1703年、孫の正久の時に上総大多喜城に移封されて廃藩となった。

 玉縄城は、現在主郭は清泉女学院の敷地に変貌している。また、城の周囲一帯は一面の住宅地に変貌してしまっている。一般にはこれをもって、玉縄城の遺構湮滅としている。しかし、実は遺構はかなり良好に現存している。清泉女学院の周囲には主郭を囲む土塁が残っており、殊に諏訪檀と呼ばれる主郭内からの比高10mを超える大きな高台は往時のままである。諏訪檀には、清泉女学院に所定の手続きを踏めば、許可を得て入ることができる。(但し構内を探索するのはNG。)この諏訪壇の南東下方には深さ4mの堀切と土橋が明瞭に残っている。周辺には腰曲輪も付随している。一方、学院を離れ、北の早雲台団地の裏手の山林に、畑の所有者に許可を得て入り込めば、そこにも見事な遺構が残っている。主郭外周の高さ4m程もある土塁が明瞭に残り、そこに切通し状の地形があり、おそらく北側の搦手虎口と思われる。(土塁上にフェンスがあり、そこから先は学院敷地なのでフェンス内は侵入NG。)ここから斜面を下る搦手道は竪堀状になっており、周辺に腰曲輪を伴っている。腰曲輪にも食違い虎口らしい遺構が確認できる。また、主郭南東側に当たる七曲坂最上部南の住宅地裏の尾根を探索すると、深さ10mの城中最大の堀切が残っている。ここにも腰曲輪が付随している。その先の尾根にも小堀切があるようで、陣屋坂と呼ばれる車道からよく見ることができる。以上の様な感じで、もっとよく見て回ればもっと遺構が出てくる可能性がある。玉縄城は、断片的だが良好な遺構が残り、思った以上に素晴らしい。また清泉女学院の応対も丁寧で、非常に好感が持てる。一方で、七曲坂入口の平場に幼稚園が計画されており、まだこれ以上破壊するのかと、行政当局の対応に疑問を持つ。これ以上の遺構破壊は一刻も早く止めて欲しい。

 それから、玉縄北条氏3代の墓のある龍宝寺裏山は頂部がきれいに削平されており、位置的に考えて出城と考えてよいと思う。龍宝寺砦とでも言えば良いだろうか。

 尚、玉縄城に行ったのが東日本大震災のわずか2日前。神奈川の主要城郭では最後の目標となった玉縄城が、大震災前に行った最後の城となった。
搦手虎口跡→DSC03476.JPG
DSC03429.JPG←諏訪檀下の腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.31.1.3N35.21.2.2&ZM=9
     【玉縄首塚】
     http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.31.48.6N35.20.49.7&ZM=9
nice!(3)  コメント(4) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 3

コメント 4

山村刑事

はじめまして、素晴らしいサイトなので楽しく拝見させて頂いてます。こちらを拝見させて頂き搦手虎口を見たくて早雲台団地に行き、畑の方に許しを得て少し畑の裏辺りを見せて頂き堀切りらしき所は見つけましたが、枯れ木など凄くて正確な形も解らずとても下からは上が見えない感じで登るも相当苦労しそうでしたが、写真の搦手虎口が有るのはそこの事でしょうか?「Mapfanの図では99の場所辺りのでしょうか?」お手数ですがもしよければ教えてください。
by 山村刑事 (2013-10-13 20:55) 

アテンザ23Z

>山村刑事さん
こんばんは。いつも当ブログを拝見いただきありがとうございます。
搦手虎口の位置は、お説の通り、概ねMapfanの図の99の辺りから南に行って、主郭外周の城塁に取り付いた、その上方になります。
城塁上部に学園敷地境界のフェンスが張り巡らされていますので、そのフェンス伝いに辿って行けば、切通し状の虎口に行き当たると思います。
ただガサ藪の中なので、夏場は確認が難しいと思いますので、行くなら冬場をお勧めします。
by アテンザ23Z (2013-10-14 01:22) 

山村刑事

教えて頂いてありがとうございます、実家がそう遠い所ではないので冬にでも再訪してみます。まりけばの先の尾根伝いに有る遺構は知ってましたが、、あの畑の堀切りらしき上にそんな所が有るとは知りませんえした、地元の玉縄城の会の方も知らないのでは?それにしても、よく発見されたなーと感心しています!
またなにか有りましたらよろしくお願いします。
by 山村刑事 (2013-10-14 21:07) 

アテンザ23Z

>山村刑事さん
少しでもお役に立てて光栄です。
遠目に見て、何か遺構がありそうな薮でしたので、ダメ元で突入したのが奏効した様です。
玉縄城でも静岡古城研究会の様な熱心な研究者が、地元住民の許可を得た上で悉皆調査でもしてくれれば、残っている遺構がもっと明らかになるかもしれませんね。
by アテンザ23Z (2013-10-16 00:40) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
メッセージを送る