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平塚城(東京都北区) [古城めぐり(東京)]

DSC04474.JPG←切通し状の蝉坂
 平塚城は、武蔵の豪族豊島氏の築いた城である。豊島氏は秩父氏の庶流で、秩父別当武基の弟か次男と考えられている武常がこの地を開発して豊島氏を称したと言われている。その子近義は平塚城を築き、源義家に属した。義家は後三年の役の凱旋途中、平塚城に寄って近義から饗応を受け、その礼に鎧一領を下賜した。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋めて塚を築き、城の鎮守としたと言う。塚は甲冑塚と呼ばれ、平塚の名の起源となったとされる。豊島氏で名高い豊島清光は近義の子で、清康・朝経・葛西清重らを率いて源頼朝に従って戦い、鎌倉幕府創業の功臣となった。清康が早く没した為、朝経が跡を継ぎ、その系統が惣領家となって平塚城を根拠地としていたと言われている。1333年、新田義貞が挙兵して鎌倉を攻めた際には、参集した武蔵武士の中に豊島氏がおり、庶流の滝野川板橋・赤塚氏を率いて従軍した。

 1416年の上杉禅秀の乱では、豊島氏は江戸氏と共に鎌倉公方足利持氏方に加わって戦っている。後に扇谷上杉氏の家宰太田道灌が江戸城を築いた頃には、武蔵に勢力を拡大する道灌との間に対立が生じていたようである。1476年に生起した長尾景春の乱では豊島泰経とその弟泰明は景春方に付き、山内上杉顕定方の道灌に攻められることとなった。その詳細は石神井城の項に記載する。平塚城に拠った泰明を攻めた道灌勢との間で、江古田原・沼袋ヶ原に於いて激戦が展開され、豊島氏は大敗して泰明以下一族150余名が戦死した。その後、練馬城・石神井城を落とされて敗走した泰経は平塚城に拠ったが、これも道灌に陥とされ、更に小机城に逃げ延びたが、これも陥とされて豊島宗家は没落した。

 平塚城は、現在の平塚神社の地にあったとされている。京浜東北線の西側に連なる台地上に築かれた城で、現在周囲は都市化し、遺構は全く残っていない。平塚神社の裏手には甲冑塚が残るようだが、現在は柵で囲われており入ることができない。また平塚神社の東側には蝉坂と呼ばれる道が通り、切通し状になっているので、かつての堀跡のように見える。湮滅した城であるが、その地勢のみが往時ここが城であったことを物語っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.44.57.6N35.44.34.9&ZM=9

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