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鎌倉史跡巡り その2~稲村ヶ崎(神奈川県鎌倉市) [その他の史跡巡り]

DSC03510.JPG←朝日を浴びる稲村ヶ崎
 鎌倉巡りの2日目である。昨晩の晩酌は抑えて、早朝から江ノ電で出陣である。

 稲村ヶ崎ほど、南北朝の古戦場で知られた場所は無いだろう。鎌倉の命運を決めた場所である。正式名称は「稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地」と言う。
 1333年5月8日、上野の地よりわずか150騎で挙兵した新田義貞は須臾の間に鎌倉街道を南下、軍陣に足利千寿王(後の義詮)を迎えて諸国の武家を糾合しつつ、小手指ヶ原、久米川、分倍河原と幕府軍を相次いで撃破、18日に三方より大軍で鎌倉に迫った。自らは弟脇屋義助と共に中軍を率いて化粧坂口を、堀口貞満らには巨福呂坂口を、大館宗氏、江田行義らには極楽寺坂口を攻撃させた。しかし三方を山で囲まれた天然の要害である鎌倉は、頑として落ちない。特に切通しは細く険しく、大軍の攻撃を阻み、一進一退の攻防が続いた。そんな中、大館宗氏が稲村ヶ崎を越えて府内に侵入したものの反撃を受けて戦死したことを聞いた義貞は、稲村ヶ崎の突破を決断。21日夜半、引き潮で大きく道の開けた稲村ヶ崎を突破し、鎌倉府内に一気に攻め入った。この際、海に浮かんで警備していた幕府方の兵船は、義貞の搦め手の陽動に引っ掛かり、稲村ヶ崎を離れてしまったと言う。
 こうして主力が府内の突入を果たすと、幕府方は一気に浮き足立ち、新田勢は府内に雪崩込んで激しい市街戦が繰り広げられた。命運を悟った得宗北条高時ら北条一門は、一族の菩提寺である葛西ヶ谷の東勝寺に集まり、22日、一族郎党自害して、ここに北条氏は滅亡した。

 稲村ヶ崎は、現在でも海辺にそそり立つ絶壁である。ここから西は一面の砂浜が続くが、稲村ヶ崎周辺は浜辺も岩場となっていて足場はあまり良くない。また現在は稲村ヶ崎の背後を国道が貫通しているが、この道が無ければ稲村ヶ崎は、絶壁で敵の侵入を阻む格好の防衛線であっただろう。義貞が、この一瞬に全てを掛けて命を燃やした稲村ヶ崎は、現在は朝から散歩をする人々の憩いの場となって我々の前にたたずんでいる。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.31.43.5N35.17.54.4&ZM=9

※鎌倉史跡巡りの続きはこちら
タグ:古戦場
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コメント 4

fuzzy

稲村ケ崎と謂えば、新田義貞と桑田佳祐(おまけです)ですね、義貞は鎌倉幕府を陥落させた功労者で、本来は一番の英雄になるべき武将でした、なぜか凡庸な武将の印象も有るようですが、難攻不落の鎌倉、戦術的才能や人望も備わらなければ攻めきれません、しかし義貞の最後は悲運でした。
私は、義貞と木曽義仲に同じ匂いを感じます、(悲運であり、女に弱い処も)やはり血脈なのでしょう。
by fuzzy (2010-02-09 14:11) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
新田義貞より稲村ジェーンの方が世間では知られているのが、
南北朝ファンとしては悲しいところです。
これも義貞の悲運の一つでしょうか。
by アテンザ23Z (2010-02-09 19:54) 

ノリパ

そうなんですか、すごい史実の土地ですね。
それがし稲村ジェーンしか知らなかったですし。
そういえば、昔行った時。当時波乗り女の嫁さんが、
ビッグウエィブを見たいと寄りました・・・
でも、そんな歴史を知らなかった。次いつ行けるんだろ・・・
by ノリパ (2010-02-14 17:52) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
やっぱり「稲村ジェーン」の方でしたか。
義貞あわれ・・・。
by アテンザ23Z (2010-02-14 23:19) 

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