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鎌倉史跡巡り その1(神奈川県鎌倉市) [その他の史跡巡り]

 昨秋、友人と共に鎌倉の史跡巡りをすることができた。いわずと知れた武家の都であるが、鎌倉時代以上に南北朝期の史跡が数多く残る土地であり、南北朝フリークとしては避けて通れない場所である。

<鶴岡八幡宮>
 歴史好きでここを知らない人はいないと思うので、詳しい説明は省略する。宝物館には、4代鎌倉公方足利持氏の血書願文が残っている。これは朱墨に血を混ぜて書いたおどろおどろしいもので、願文中の「呪詛怨敵」とは時の6代将軍足利義教を指すと言われている。この狂気に満ちた鎌倉公方は、後に「永享の乱」と言う大乱を引き起こし、幕府・関東管領連合軍に滅ぼされた。しかし乱は収まらず、結城合戦、享徳の乱と続き、関東は騒乱の巷と化していった。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.33.4N35.19.17.8&ZM=9

<明月院>
DSC03424.JPG←上杉憲方墓所
 鎌倉幕府5代執権北条時頼の建てた最明寺跡に、子の時宗が禅興寺を建立した。明月院はこの塔頭として、室町時代に関東管領山内上杉憲方によって建てられたものである。境内には北条時頼や上杉憲方の墓所がある。また入口付近に「深谷上杉氏ゆかりの寺」という石碑が建つが、具体的にどういう縁があるのかわからない。深谷上杉氏は山内上杉氏の傍流なので、何らかの関係はあるのだろうが・・・。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.16.7N35.19.53.7&ZM=9

<長寿寺>
 1336年、足利尊氏が自分の邸跡に創建した寺である。後、初代鎌倉公方足利基氏が、父尊氏の菩提を弔う為、七堂伽藍を備えた堂宇を建立した。通常は非公開らしいが、この日は特別に公開されていた。足利尊氏の木像と遺髪を埋葬した墓がある。墓はかなり小さく風化も進んでいる。しかし尊氏ファンは行くべし。
足利尊氏の墓→DSC03444.JPG

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.13.0N35.19.41.6&ZM=9

<巨福呂坂切通し>
DSC03450.JPG←切通しの標柱
 巨福呂坂は新田義貞の鎌倉攻めの際に攻めた3切通しの一つである。現在は住宅地の奥にトンネルのようなものが残るだけである。トンネル状の切通しだったのであろうか?それともその脇の道だったのだろうか?

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.28.3N35.19.29.1&ZM=9

<浄光明寺>
 1335年、中先代の乱で危殆に瀕した弟直義達を救援して鎌倉を奪回する為、足利尊氏は後醍醐天皇の聴許を得ずに東下。精鋭軍を率いて要害七ヶ所の戦いを一度も落とさず連破し、瞬く間に鎌倉を奪還した。北条時行方が鎌倉を保持することわずか二十日余り。故に二十日先代の乱とも呼ばれる。その後、尊氏は鎌倉に腰を落ち着けた為、離反の兆候を見て取った後醍醐天皇は、尊氏討伐の為、新田義貞に軍を率いて東下させた。これを聞いた尊氏は、自身の罪を詫びる為、断髪して寺に蟄居した。その寺が、この浄光明寺である。しかし直義率いる足利勢が三河から敗れ引いて、箱根で最後の籠城戦をしていることを知ると、ついに尊氏は決起を決意し、鎌倉に残っていた小山・結城の軍を率いて伊豆竹之下で義貞軍に夜襲を掛けて撃破、一挙に攻守逆転して東海道を京へ攻め上っていった。ここに建武の新政は事実上崩壊し、南北朝と言う長い動乱の時代に突入することとなった。従って浄光明寺は、歴史上画期となった重要な寺であった。
 この寺ではもう一つ重要な話を聞くことができた。この寺に伝わる地蔵菩薩は、矢拾地蔵と呼ばれ、足利直義由来の地蔵であると言う。執権直義が敵勢に攻められて矢を射尽くしたところ、童子が現れて矢を集めて授けてくれた、そこで自分の守り本尊としたと伝わっているそうだ。おそらくこの合戦は、中先代の乱の井出の沢合戦であろう。直義所縁のものまであるとは思わなかった。
DSC03454.JPG

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.15.8N35.19.23.4&ZM=9

<太田道灌邸跡>
DSC03464.JPG
 太田道灌は、扇谷上杉氏を支えた名将で、長尾景春の乱討伐などで功績を挙げた。また築城術にも優れ、中世江戸城岩槻城など、武蔵の重要な城を築城した。現在の英勝寺が太田道灌邸跡とされる。道灌4世の孫康資の息女は徳川家康に仕え、水戸中納言頼房の准母となり、家康死後は英勝院と呼ばれて3代将軍家光より父祖旧縁の地を賜って英勝寺を創建したと言う。遺構は残念ながら残っていない。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.11.1N35.19.18.3&ZM=9

<化粧坂切通し>
 化粧坂切通しは、新田義貞の鎌倉攻めの際に攻めた3切通しの一つで、義貞本隊が攻めた場所である。しかし守りは堅く、数日経過しても抜くことができなかった。そこで義貞は作戦を変え、稲村ヶ崎に活路を見出すのである。化粧坂切通しは、鎌倉の切通しの中では最も良く旧状を残すと言われ、歩き以外での通行は不可能な険しい岩の斜面を登る道である。この切通し付近には、良く見ると腰曲輪状のちょっとした平坦地が見られるが、もしかしたら鎌倉攻防の際の曲輪跡であろうか?
DSC03473.JPG

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.32.53.2N35.19.21.6&ZM=9

<日野俊基墓>
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 日野俊基は、日野資朝と並ぶ後醍醐天皇の腹心で天皇の倒幕計画に参加した。正中の変(1324年)で日野資朝らと共に幕府に捕らえられたが釈放され、元弘の変(1331年)で再び捕らえられ、鎌倉の葛原岡で処刑された。現在、その地に墓が建つ。墓は国指定史跡となる。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.32.46.4N35.19.29.6&ZM=9

<東勝寺跡(附、高時腹切りやぐら)>
 東勝寺は鎌倉幕府3代執権北条泰時が建てた寺院で、北条得宗家の氏寺であった。新田義貞の軍勢が稲村ヶ崎を越えて府内に乱入すると、最期を悟った北条一門はこの寺に集まって、得宗高時以下の一族郎党、自害して果てた。現在は寺跡の平坦地がフェンスに囲まれて残るだけである。そのやや上方に、高時腹切りやぐらが残されている。尚「やぐら」とは中世鎌倉では横穴式の墓のことを言うらしい。
高時腹切りやぐら→DSC03495.JPG

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.45.9N35.19.2.3&ZM=9

※鎌倉史跡巡りの続きはこちら
タグ:古戦場 墓所
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コメント 4

fuzzy

奥州の地の後は武家の聖地ですか。いやはや好い処ばかりで記事を読んでいるだけで、心が飛んでいきます。鎌倉は源氏の治めた時代から北条・後北条まで、色々な史実・歴史処を有した奈良・京都に継ぐ歴史の舞台ですね、私も関東では最高の歴史スポットが鎌倉が好きです。
by fuzzy (2010-02-08 12:28) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
いやぁ、ついに行きました、と言う感じです。
というのも、普段の移動の足は車なので、
車移動がきつい鎌倉は、最も行きにくい場所でした。
ようやく念願が叶いました。
by アテンザ23Z (2010-02-08 19:25) 

ノリパ

鎌倉ですか、めっちゃいいデスね。なんだかんだ言って、
武家の棟梁は源氏ですからね。遠い薩摩・島津家も由緒正しき
源氏の子孫だし。
昔行きましたけど、カメラを失くした苦い記憶があります・・・
by ノリパ (2010-02-14 17:49) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
それはそれは残念な思い出ですね。
次に鎌倉に行かれるときは、是非いいことがありますように。
by アテンザ23Z (2010-02-14 23:16) 

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