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岐阜城(岐阜県岐阜市) [古城めぐり(岐阜)]

IMG_3732.JPG←山上の復興天守
(2003年10月訪城)
 岐阜城は、元の名を稲葉山城と言い、美濃のマムシと恐れられた戦国大名斎藤道三の居城であり、後には織田信長が安土城を築いて移るまで、信長の居城となった。標高328.9m、比高310mの金華山上に築かれた峻険な山城で、元々は鎌倉時代に鎌倉幕府政所執事の二階堂行政が築いたと伝わっている。そのころはおそらく小規模な砦程度のものであったろう。室町時代に入り守護領国制が確立すると、稲葉山城は美濃の守護である土岐氏の守護代斎藤氏が整備した。本格的に居城として整備されたのは斎藤道三の時で、斎藤家を謀略によって乗っ取った道三は、主家土岐氏を排して美濃を押さえた。後に道三の女婿織田信長は、斎藤龍興を攻め下して稲葉山城を掌中に収めると、居城を稲葉山城に移し、城の名も岐阜城と改めた。周の文王(西伯昌)が岐山より興った故事に倣ったという有名な話である。信長以降も幾多の変遷を経て使われた城であったが、関ヶ原の戦いの後、廃城となった。

 岐阜城を訪れた頃は城巡り初心者の頃だったので、まだ山城の何たるかもわからずに見て回ったので、今から考えると、結構見落とした遺構が多かったと思われる。しかも時間節約の為、ロープウェイで登ったので、当然ながら金華山中腹の遺構群は全く見ていない状況だった為、あまり城巡りする方の参考になるような情報は、ここには記載できない。
 ただ言える事は、その勇名とは裏腹に山上の曲輪群は非常に狭く、詰城としての性格が強かったように記憶している。本郭など、ほとんど天守台で占められていたと思う。そういう意味では、斎藤氏の時代から平時の居館を麓に置いた根古屋式の山城であったのだろうと考えられる。現に、織田信長の時代には麓に居館が築かれており、現在でも発掘調査が続いている。峻険な山上に築かれた城の為、有力な戦国大名の城郭にもかかわらず、城の規模・遺構の充実度はやや見劣りする感があった。信長以降は、山上の城は権威の象徴としての意味しか持たなかったものなのであろう。また廃城となった時に、石垣も他に移されたこともあり、余計見劣りするのであろう。

 麓の信長居館跡は、石垣などが一部発掘復元されているが、2003年当時はまだささやかな規模でしかなく、まだ往時の姿が思い浮かべられるような規模の復元ではなかった。今はだいぶ復元も進んだことだろう。いずれ再訪してみたい城である。

 なお岐阜城でもらったパンフレットに、「信長の野望燃え立つ、金華山」というキャッチコピーが書かれていたが、山上にそびえる岐阜城の峻険さと、戦国の世を制覇しようとする信長の壮大な野望が重なり合った、見事なコピーだと思う。6年前に一目見ただけでいまだに岐阜城と聞いて思い出す、忘れがたい名コピーである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E136.47.6.0N35.25.50.7&ZM=9
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コメント 4

ノリパ

いいところですよ。景色は。それがしの実家の近くです。
でも、歩いて登るのはしんどいですよ。と言っても、アテンザ23Zさんなら
大丈夫かも。それがしのヒザでは無理です。
by ノリパ (2009-10-02 12:03) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
ご実家は岐阜でしたか。
大きな城跡が多数残っている地域で、
羨ましいです。
by アテンザ23Z (2009-10-03 18:36) 

fuzzy

稲葉山城、典型的な山城のようですね。この城を意図も簡単に奪取した「竹中半兵衛」はほんとにすごい人です。
by fuzzy (2009-10-05 16:31) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
まさに知将ですね。
竹中半兵衛がもっと長生きしていたら、
豊臣政権をもっと強固なものにして、
日本の歴史が大きく変わっていたかもしれませんね。
by アテンザ23Z (2009-10-06 02:02) 

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