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鮎貝城(山形県白鷹町) [古城めぐり(山形)]

DSC06747.JPG←本丸北側の水堀
 鮎貝城は、白鷹町市街の独立丘陵上に築かれた平山城である。平安末期に藤原鎌足の11代の後裔、藤原安親が奥州藤原氏を頼って京都より下向し、松川西郷の庄官として土着し横越館を築いて横越氏を称した。9代成宗は室町中期に伊達家上座の格を以って要衝鮎貝の地に築城し、以後鮎貝氏を称した。鮎貝氏は伊達氏に服属したものの半ば独立した勢力であり、「守護不入」の特権も認められていた。鮎貝氏6代の太郎宗信は、最上義光の姉を妻にして伊達政宗に叛し、1587年に滅ぼされた。その後、鮎貝氏は宗信の弟宗定が継ぎ、豊臣秀吉の奥州仕置きで伊達政宗が岩出山に移封されると、それに従ってこの地を離れた。鮎貝城は、蒲生氏を経て上杉氏の支城となり、上杉氏家老の直江山城守兼続は、鮎貝城に中条与次三盛を城代として置いた。東北の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦の折には、中条三盛は荒砥城の泉沢久秀と共にこの地を出立して八ッ沼城を攻めた。その後、江戸時代には本庄忠長が入城し、代々の居館となったと言う。
 鮎貝城は、1.5km程東の最上川対岸にある荒砥城と非常に似た感じの城で、その地勢と築城構想はほぼ同じと考えてよい。平野部の独立丘陵を城塞化したもので、周囲を水堀で囲んで防御している。本丸跡に神社が置かれているところまで荒砥城と同じで、本丸跡には鮎貝八幡宮が鎮座している。遺構は荒砥城より良好に残っており、八幡宮背後には横矢の掛かった高さ5m程の土塁があり、その北側には見事な水堀も残っている。二ノ丸・三ノ丸周囲にも堀があったようだが、現在は曲輪共々市街化で湮滅している。また本丸西側下の道路は、堀跡であったことはまず疑いない。本丸の土塁や水堀が往時の姿を残しているので、荒砥城以上に城跡らしい風情を残している。
本丸の土塁→DSC06733.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.189894&lon=140.075966&z=16&did=std&crs=1
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コメント 6

ノリパ

なんか今も昔も変わらぬ土塁の風景って感じがします。
木も切られて材木にされて、また数十年後に同じ光景
となって、という感じです。何回転目なんだろう・・・
by ノリパ (2009-06-30 21:50) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
街中なのに、きれいに城の痕跡が残っていると、
それだけでうれしくなります。
地元の人が長い時間、伝えてきている思いが感じられます。
by アテンザ23Z (2009-07-02 02:31) 

MVK

我が家の先祖は、上杉藩の侍で鮎貝に詰めていたという。
城主、本庄氏と上杉藩の侍は、どんな関係だったのでしょう。

by MVK (2014-11-25 09:43) 

アテンザ23Z

>MVKさん
本庄氏は御役屋将(要するに米沢藩の地方代官)ですので、この地に派遣された米沢藩の侍は、当然本庄氏の指揮下に入っていたと思います。近世大名では、戦国期と違い、基本的に幕府の権威を背景に大名権力が一元化されていますので。
by アテンザ23Z (2014-11-26 18:03) 

北陸の横越氏

有意義な情報をありがとうございます。
ぜひ訪れてみたいものです。

by 北陸の横越氏 (2017-02-25 09:49) 

アテンザ23Z

>北陸の横越氏さん
当ブログに訪問頂きありがとうございます。少しでも参考になれば幸いです。
by アテンザ23Z (2017-02-25 11:16) 

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